宇宙は、息をする実存である。つまり、それ自身が呼吸をする生命体なのだ。我々人類は、その宇宙に抱かれて、おのれ自身の生命を育んで来た。芸術とは、この世にその生命の雄叫びを響き渡らせることなのである。また、その哀しみを刻みつけることを言うのだ。それらが螺旋の原理を組み、芸術をうち立てている。この原理を、我々は遠心性と求心性と呼んでいるのだ。遠心は、無限の宇宙に向って熱情が放散する。求心は、中心核の一点に向って熱情が凝縮して行く。つまり、呼吸である。そして、我々の生命が呻吟するとき、この呼吸は乱れ、一方に偏る。従って、秀れた芸術は、この遠心と求心の一方に偏ることによって力を蓄え、おのが生命の息吹きをこの世に現成している。偏りのゆえに、遠心は求心を慕い、求心は遠心を恋することとなる。この激しい熱情が、真の芸術を生み出しているのだ。そして我々は、その芸術にこそ愛の実在を見出しているのであろう。
平野遼は、求心的である。それは虚空から発して、中心の一点に向って結晶状に凝縮して行く。その宇宙的な、極みのない凝縮が、我々に生命的な開放をもたらすのだ。強い求心性のゆえに、作品には霧のような「不透明の透明感」が漂う。求心性がもつ開放感は、芸術的生命が有する逆説性と言えよう。凝縮に反発し、この世から飛翔する開放を感ずる。それは、打ち寄せる波のように柔らかく、そして力強い。それは、漂う精神であり、我々の心に、失った故郷を慕う悔恨の情を起こさせるのである。人間が失った「美しきもの」を求め続けているのだ。真の憧れである。失ったものに恋い焦がれる純心さが、切ない。真の故郷を慕う者の哀しみ。この世が霧の世界である者の慟哭。憧れに生きる者だけが知る孤独。それが「平野」なのだ。つまり、幽玄の中に漂う何ものか、である。
戸嶋靖昌は、遠心的である。それは、中心から発して、無限の宇宙に向って放射状に広がって行く。その宇宙的な、涯ての無い拡散が、我々の心に驚愕をもたらすのだ。それは、ごつごつして量感があり、堅固な姿を現わしている。荒削りで直線的であり、秘められた信仰の精神が生み出す生命的な暗さを帯びているのだ。見る者の心に、畏れを起こさせる謂われが、そこにある。戸嶋のもつ「大きさ」、つまりその遠心性のゆえに、その作品は結晶的な質量を有しているのである。遠心性のもつ質量感は、芸術的生命が発する逆説性と言えよう。拡散を喰い止め、この世に留まろうとする意志を感ずる。自己を破壊し、その廃墟の上に新しい自己を生み出そうとしているのだ。その重層構造の哀しみ。死ぬことによって、生きようとする熱情。それが「戸嶋」なのだ。つまり、崇高を仰ぎ見る精神である。