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第4回「執行草舟コレクション展 ―平野遼―」

芸術寸評 展覧会パネル文章

 宇宙は、息をする実存である。つまり、それ自身が呼吸をする生命体なのだ。我々人類は、その宇宙に抱かれて、おのれ自身の生命を育んで来た。芸術とは、この世にその生命の雄叫びを響き渡らせることなのである。また、その哀しみを刻みつけることを言うのだ。それらが螺旋の原理を組み、芸術をうち立てている。この原理を、我々は遠心性と求心性と呼んでいるのだ。遠心は、無限の宇宙に向って熱情が放散する。求心は、中心核の一点に向って熱情が凝縮して行く。つまり、呼吸である。そして、我々の生命が呻吟するとき、この呼吸は乱れ、一方に偏る。従って、秀れた芸術は、この遠心と求心の一方に偏ることによって力を蓄え、おのが生命の息吹きをこの世に現成している。偏りのゆえに、遠心は求心を慕い、求心は遠心を恋することとなる。この激しい熱情が、真の芸術を生み出しているのだ。そして我々は、その芸術にこそ愛の実在を見出しているのであろう。

平野遼の芸術

 平野遼は、求心的である。それは虚空から発して、中心の一点に向って結晶状に凝縮して行く。その宇宙的な、極みのない凝縮が、我々に生命的な開放をもたらすのだ。強い求心性のゆえに、作品には霧のような「不透明の透明感」が漂う。求心性がもつ開放感は、芸術的生命が有する逆説性と言えよう。凝縮に反発し、この世から飛翔する開放を感ずる。それは、打ち寄せる波のように柔らかく、そして力強い。それは、漂う精神であり、我々の心に、失った故郷を慕う悔恨の情を起こさせるのである。人間が失った「美しきもの」を求め続けているのだ。真の憧れである。失ったものに恋い焦がれる純心さが、切ない。真の故郷を慕う者の哀しみ。この世が霧の世界である者の慟哭。憧れに生きる者だけが知る孤独。それが「平野」なのだ。つまり、幽玄の中に漂う何ものか、である。

戸嶋靖昌の芸術

 戸嶋靖昌は、遠心的である。それは、中心から発して、無限の宇宙に向って放射状に広がって行く。その宇宙的な、涯ての無い拡散が、我々の心に驚愕をもたらすのだ。それは、ごつごつして量感があり、堅固な姿を現わしている。荒削りで直線的であり、秘められた信仰の精神が生み出す生命的な暗さを帯びているのだ。見る者の心に、畏れを起こさせる謂われが、そこにある。戸嶋のもつ「大きさ」、つまりその遠心性のゆえに、その作品は結晶的な質量を有しているのである。遠心性のもつ質量感は、芸術的生命が発する逆説性と言えよう。拡散を喰い止め、この世に留まろうとする意志を感ずる。自己を破壊し、その廃墟の上に新しい自己を生み出そうとしているのだ。その重層構造の哀しみ。死ぬことによって、生きようとする熱情。それが「戸嶋」なのだ。つまり、崇高を仰ぎ見る精神である。

執行草舟
  • 〈展覧会 案内葉書〉左絵:「奔馬の形態」平野遼 画
  • 〈展覧会イメージ作品〉「石のある風景」戸嶋靖昌 画
〈展覧会名〉
第4回「執行草舟コレクション展 ―平野遼―」
常設展:Best Selection of Toshima
〈会期〉
2012年11月26日~2013年2月28日
〈概要〉
執行草舟コレクションの洋画における双璧の一つである平野遼の作品を中心に約30点展示します。代表作品である「奔馬の形態」を始めとし、執行草舟が独自の視点で捉えた「遠心」と「求心」を展示主題に、生命・宇宙へと繋がる平野遼の世界をご紹介いたします。同時に常設として、戸嶋靖昌の作品も同会場に展示いたします。
戸嶋靖昌の代表的な作品を常設展示として、平野遼展会期中に開催予定。約15点を同会場内で展示します。

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