風の葬祭
戸嶋は、埋葬の芸術を築き上げた。生命の悲哀を、見つめ続けた結果であろう。生命の現前は、それを愛することによって初めて可能になる。しかし、生命の存在を真に愛することは悲しみでしかないのだ。愛は、悲しみである。戸嶋は、死に行く生(セイ)に祈りを捧げていたに違いない。それを断行することが、芸術家の使命だと思っていた。それゆえに、戸嶋はすべての生命を埋葬するのだ。自己を滅却して生を埋葬する。風のように、生命を慈しみながら埋葬する。風の葬祭が、画布を埋め尽くして行く。そして、その生命の未来を描く。その生命の生きた痕跡を描く。それは、さながら生命の悲哀を葬るかのように見える。ここにこそ、戸嶋絵画の葬送の調べがあるのだ。
無から有へ
「虎ノ門は、俺にとって無から有を生み出したということになるだろう」。そう戸嶋靖昌は、死の淵で語った。私は、その意味を考え続けている。戸嶋の生命は、垂直の重力である。だからだろう。戸嶋は、その「日常底(テイ)」に潜む暗黒の魔性と直面して生きていた。魔性は、戸嶋のはらわたを抉(エグ)り続けた。そして、戸嶋自身の生命に、真空の混沌(カオス)を創り上げていたのだ。混沌が、戸嶋の生存を支配した。その苦悩と呻吟が、戸嶋芸術に他ならない。その涙の涯てに、戸嶋は「神」を見出したに違いない。遠い「憧れ」が近づいて来たのだろう。崩れ行く肉体が、戸嶋に真実の力強い永遠を摑み取らせた。ついに、無限と有限を司る、逆説の弁証法が立ち上がったのだ。
執行草舟