草舟座右銘

執行草舟が愛する偉人たちの言葉を「草舟座右銘」とし、一つひとつの言葉との出会い、想い、情緒を、書き下ろします。いままで著作のなかで触れた言葉もありますが、改めて各偉人に対して感じることや、その言葉をどのように精神的支柱としてきたか、草舟が定期的にみなさまへご紹介します。ウェブサイトで初めて公開する座右銘も登場します。

  • 『旧約聖書』詩篇137篇より

    われらはバビロンの川のほとりにすわり、
    シオンを思い出して涙を流した。

 記憶が、自己を打ち立てるのである。思い出が、困難を乗り越える力を我々に与えてくれるのだ。良い思い出を持つ者には、宇宙の根源力が降り注いで来る。鮮明な記憶と対面する者は、文明の限り無い知恵を受けることが出来る。秀れた人間は、秀れた思い出を持っている。美しい人間は、美しい記憶を持っているのだ。強い人間は、思い出を愛する。強い民族は、決して根源的故郷を忘れることがない。私はこの詩篇を見るとき、いつでもこう考えているのだ。
 私はこの詩篇を、立教小学校の音楽の授業で教わったのだ。宗教哲学者として名高いあの波多野精一の姪にあたる、波多野春子先生が我々の音楽を指導して下さった。その流麗なピアノの旋律に乗せて、美しい声でこの詩篇を歌われた。バビロン捕囚に泣くユダヤ民族は、その故郷シオンを偲んですべてに耐えた。望郷の悲しさが、私の魂を捉えた。そして、その望郷があの強大なユダヤ民族を生んだと知ったのだ。その民族の活力の根源を、私はこの詩に見た。
 その時から、この詩は私の座右に掲げられたのだ。この詩がもつ力が、私の中に文明の精神をたたき込んでくれたように思う。後年、フリードリッヒ・ヘーゲルの『精神現象学』を読んだ時、私は精神の根源に「望郷」があることを知った。「自らの精神とは、思い出と記憶のことである」。そうヘーゲルが語りかけてくれたのである。私の詩篇は、ひとつの哲学へと昇華した。人間の精神の根本は、ロマンティシズムなのだ。詩が、人間存在の根底を支えている。私は詩の中を突進しようと決意した。

2019年9月2日

掲載箇所(執行草舟著作):『根源へ』p.434、『孤高のリアリズム』p.48
『旧約聖書』詩篇137篇について 紀元前六世紀に南ユダ王国の首都エルサレムは新バビロニアにより陥落、ユダヤ人たちは捕虜としてバビロニアに移住させられた(バビロン捕囚)。詩篇137篇は、バビロン捕囚のあと、ユダヤ人が故郷のシオンを懐かしんで詠った詩のことで、ユダヤ民族の深い嘆きや悲しみが表現されている。また、哲学者の森有正はこの詩の最初の行を題名にして、エッセー『バビロンの流れのほとりにて』を書いている。

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