草舟座右銘

執行草舟が愛する偉人たちの言葉を「草舟座右銘」とし、一つひとつの言葉との出会い、想い、情緒を、書き下ろします。いままで著作のなかで触れた言葉もありますが、改めて各偉人に対して感じることや、その言葉をどのように精神的支柱としてきたか、草舟が定期的にみなさまへご紹介します。ウェブサイトで初めて公開する座右銘も登場します。

  • 白隠禅師「偈」より

    ()よや双眼の色、語らざれば(うれ)い無きに似たり。

    《 君看双眼色、不語似無愁 》

 人間はみな、それぞれの悲しみを抱いて生きている。一人ひとりが、違った悲しみをかかえている。それが、人間としてこの世に生を享けた者の宿命なのだ。人間は、悲しみから逃げることは出来ない。その悲しみと、どう対峙するかによって人生が決定する。悲しみの中に、真の幸福があるのだ。それに気付くために、我々は生きているのではないか。悲しみがあるから、我々は他者を愛することが出来る。悲しみがあるから、我々には生き甲斐も生まれて来るのだ。
 どのような人間にも、悲しみがある。それを知ることが、大人と成った証ではないだろうか。それを分からぬ者は、永遠の幼児としてその生を終わらせるだろう。そして、その悲しみを乗り越えることが、人生の醍醐味を創り出すのだ。悲しみを乗り越えたとき、人間は真の希望と出会うことが出来る。その悲しみが、他者から見て分からなくなったとき、人間は自らの足で大地に立つことが出来る。真の独立自尊とは、悲しみの真っ只中に直立する魂の軸線である。
 冒頭の言葉によって、私は「出会い」の本質を与えられたように思う。これを知ったとき、小学生以来、私を悩まし続けた道元の「問い」が肚に落ちたのだ。私と道元は、出会いの実存について語り合って来た。「我、人に逢うなり。人、人に逢うなり。我、我に逢うなり」。この道元の問いの中に、私は出会いの本質の存在を直感していた。その直感を信じ、私は十年の苦悩を生きたのだ。その自分なりの答えを、私は冒頭の言葉によって得たのである。限り無い希望が、地平線を覆った。

2019年12月28日

掲載箇所(執行草舟著作):『友よ』p.72、『根源へ』p.282、『魂の燃焼へ』p.100
白隠禅師(1685-1768) 臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧。白隠慧鶴。故郷の静岡県沼津市松蔭寺の住職を五十年近く務め、また請われて各地を行脚。膨大な著作や書画を残し、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」と謳われるほどだった。白隠の書は、「執行草舟コレクション」の中核の一つ。

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