草舟座右銘

執行草舟が愛する偉人たちの言葉を「草舟座右銘」とし、一つひとつの言葉との出会い、想い、情緒を、書き下ろします。いままで著作のなかで触れた言葉もありますが、改めて各偉人に対して感じることや、その言葉をどのように精神的支柱としてきたか、草舟が定期的にみなさまへご紹介します。ウェブサイトで初めて公開する座右銘も登場します。

  • 高橋和巳『邪宗門』より

    救いは、自らの絶望を自覚するものにのみ訪れる可能性がある。

 高橋和巳の名作『邪宗門』の中の言葉である。高橋和巳は、私が魂の友と呼べる作家だった。その作品の数々は、私に愛の本質と絶望の生命的淵源を打ち込んでくれた。その『邪宗門』は、『悲の器』と並んで最も強い感化を与えてくれた。中学生のときに、二年間にわたって週刊誌の『朝日ジャーナル』に連載されていたものを私は読んでいたのだ。読み終わったとき、偶然に私は作家の三島由紀夫と出会った。そして第一声が、この『邪宗門』の文学論だったことを強く覚えている。
 私は絶望の本質について、三島由紀夫に迫った。そのときの始まりの思想が、この冒頭の言葉なのである。この言葉に続いて、『邪宗門』には、「絶望が人間存在を一つの〈精神〉に高めることもあるからだ」と書かれている。青春の真っ只中を生きる私には、その意味が深くは分からなかった。だから三島由紀夫に、その答えを求めて文学論として問うたのである。意味は分からなかったが、この言葉とその思想は私の中に強く印象づけられていたのだ。私は運命の足音を聞いていたに違いない。
 私の人生は、絶望の連続だった。死の淵を見ることが、幾度あったか分からない。肉体の危機と精神の危機が、交互に絶えず私を襲って来た。しかし、人生を経るに従って、このこと以上の幸運は無かったと感じるようになったのだ。絶望が深ければ深いほど、大いなる生命の喜びに出会うことが出来た。自己の運命が、大きく飛躍したことを実感するのだ。絶望だけが、自己の本当の力を目覚めさせてくれたに違いない。絶望だけが、自己の運命に美しさを与えてくれたと思っている。

2020年1月20日

高橋和巳(1931-1971) 戦後の作家・評論家・中国文学者。小説『悲の器』で戦後知識人の問題を独自の視点で追求、戦争・宗教・政治など幅広い題材で、精力的な著述活動を展開した。その後も『邪宗門』、『散華』など精力的に作品を発表した。埴谷雄高に師事し、終生まで交流があった。

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