執行草舟が愛する偉人たちの言葉を「草舟座右銘」とし、一つひとつの言葉との出会い、想い、情緒を、書き下ろします。いままで著作のなかで触れた言葉もありますが、改めて各偉人に対して感じることや、その言葉をどのように精神的支柱としてきたか、草舟が定期的にみなさまへご紹介します。ウェブサイトで初めて公開する座右銘も登場します。
これでも、俺は何かのために生まれて来たんだ、なぁそうだろ!
ゴーリキーの文学には、生命の悲哀がある。それは、十九世紀ロシアが抱えていた魂の雄叫びに違いない。私は特に、『どん底』を好んでいた。その舞台芸術の中に、自己生存の淵源を見出していたのだ。そして、その映画化の中に、私は青春の血の迸りを感じていた。あの伝説の名優ルイ・ジューヴェの演ずる「男爵」に、私は武士道の血を滾らせていた。それは永遠の友となり、私に遠く煌めく悲哀を教えてくれた。すべてを失っても、人間には失ってはならぬものがある。
『どん底』には、その思想が蠢いている。その舞台は、極貧に落ちたこの世の敗残者たちの世界である。どうにもならぬ人間たちが、希望にもならぬ希望にしがみ付いて生きているのだ。この世の無残の巣窟と言えよう。落ちぶれた元「男爵」がいる。元「学者」がいる。元「美女」がいる。そして、みな悲しく切ない人間たちだ。しかし私はその中に、現代人よりも秀れたものを見出しているのだ。それが、「誇り」というものである。「くず」と成った人間たちにも、人間に生まれた誇りだけはある。
その一つが、冒頭の言葉である。私の愛する「男爵」が、この言葉を言う。どこまで落ちようと、俺は人間なのだ。そう言っている。この身を、何かに捧げたい。何かの使命のために生きたいということに尽きる。そういうことを、仲間たちと語り合っているのだ。敗残者たちが、である。自分たちの現状を棚に上げて、人間の誇りに生きようとしている。暗く貧しい十九世紀のロシア社会において、それでも人間に生まれた使命に生きようとしている。私は現代を恥じる。
2020年3月30日