戸嶋靖昌というのは、秋田の出身であることを生涯に亘って誇りとしていた。彼の話にはいつも秋田県のことが出てくる。自分が秋田の血を受けてるというのか、そういうところに自分が芸術家として生きる一番の根源的なものがあるんだということを、戸嶋はいつも僕にも語っていた。戸嶋の若かった頃には、まだ秋田というのは森も凄かったみたいで、いつも秋田の森の話とか、それから雪に閉ざされて、雪の中に入って我慢するというか、耐えるというか。
そういう力が秋田の人間を鍛え、その秋田の人間として、自分は森と雪に鍛えられたということを非常に誇りにしていた。戸嶋は自分でも言っていたけれども、(秋田というルーツが)戸嶋芸術の根本を支えるものだという認識だった。後からまた話も出るかもしれないけれども、雪と森からくる秋田の「粘り強さ」の中に、戸嶋というのは非常に日本人の太古の姿、日本人が求めた原初の姿というものを感じていた、とよく僕にも語っていた。だから、人間の生命が持つ良い意味の重さとか、良い意味の生命が持つ悲哀とか、そういうものを秋田という風土が自分の中にすごく創り上げてくれたというか、それが戸嶋から色々聞いた話であり、戸嶋の印象と言える。
戸嶋は自分の芸術について、決して優れているということではないと言っていたけれど、不器用であることが自分の芸術の特徴なのだということを、いつも僕に喋っていた。不器用であるということはどういうことかというと、自分がこうだと思い込んだことを命懸けで死ぬまで貫徹するというのか。そういうものが自分の芸術の特徴だということをいつも喋っていた。それを、戸嶋の言葉としては「不器用」といっていた。僕はとにかく不器用だから、いろんなことに合わせることが出来ない。もちろん流行とか色々なものが全然だめで、自分がこうだという信念を得たら、その信念に向かってまっしぐらに行くことしかできないと。そして、秋田の血がそれを醸成してくれたのだということを言っていた。
だから僕と初めて出会った時に、僕が肖像画を依頼して、肖像画を描いてくれるということで色々付き合っていたのだけれど、戸嶋とはその途中で、(戸嶋が)ガンで亡くなることによって別れが来たけれども、戸嶋自体は知り合った時に、「俺は執行の肖像、絵を死ぬまで五十枚でも百枚でも何枚でも描くぞ」ということをいつも言っていた。だから、それが戸嶋だということだ。戸嶋の本質はそれだということ。一人の人間に惚れるか、または、「よし、こいつの絵は、面白い!」と思えば、五十枚でも百枚でも何十年でも描くという覚悟があるというか。
秋田が(特徴として)持っている森と雪、それを日本の太古の姿、縄文から来る太古の日本人たちの風景、戸嶋の言葉だと「原風景」と言っていた。だから僕はその原風景という言葉も非常に忘れないのだけれども、その日本人の原風景が秋田にはあるのだということを、僕にいつも話していた。戸嶋は、自分が秋田県人としてもちろん秋田を愛しているのだけれど、戸嶋は日本人全部のルーツのような気がすると。秋田だけではなく、東北ですね。東北に日本人の一番古い原風景があると言っていた。それが特に、戸嶋は秋田出身だから、秋田が色濃いということをいつも言っていた。だから戸嶋芸術というのは、非常に秋田の、それも太古から伝わる秋田の雰囲気を持っている。つまり縄文時代から続く秋田が戸嶋を創ったというのは、僕もそう思うし、戸嶋自身もそう認識していたということです。
戸嶋というのは秋田県の鷹巣というところの、戸嶋自身もよく知っていて話していたが、僕も色々と調べさせてもらって分かったのですが、鷹巣という地域の出身でした。その坊沢の地区の中でも戸嶋家というのは平安末期からある最も古い家柄で、明治に至るまで戸嶋家そのものは鷹巣の庄屋で、名主の役割を果たしていた。
だから戸嶋は小さい頃まではそういう名主として皆から挨拶を受けたりもしていた。そういう家柄だったのです。戸嶋の祖父の代までは村長というか、土地の一番の名士という役割を現実にやっていて、歴史にも残っている。
その後、戸嶋のお父さんの代から秋田県の鉱山学校を出て鉱山技師になったと、そういう家です。家柄としては最も豊かで、何よりも教養のあった家だと言えます。あの当時の東北で、美術全集や文学全集や色んな文化的なものが全部揃っていた家というのはほとんど無かったそうですが、戸嶋家というのはそういうものが全部あって、もともと非常に文化の香りがすごくしていた家だということです。それで戸嶋は自分がそういう家の出身であるということを、本当に良い意味で、生涯誇りにしていた。だから自分のそういう血統とか家柄を汚すことは出来ない。お父さんは早くに亡くしているので、お母さんに育てられたのですが、お母さんを泣かせるようなことは出来ない。秋田県人として、秋田県の郷土に泥を塗るようなことは出来ないというのは、戸嶋が死ぬまで僕にも語っていたことなのです。
それが戸嶋芸術を支える重大な人格だと思っている。そこに戸嶋家の色んないきさつというか、誇りというのがある。それで特に戸嶋が誇りに思っていたのが、戸嶋家の直系も含めて親戚も色々あったのですが、江戸時代に庄屋をやってる頃に、不作の時とか凶作の年に、五義民という言い伝えで残されている史実に戸嶋家が大きく関わった。戸嶋家の人間も皆、村の年貢やなんかを軽減してくれるように領主に言いに行ったと言われています。あの当時のことだから、直訴したということで責任を取って、五人首を刎ねられたのですが、その中に戸嶋家の直系の先祖も親戚もいたのです。そういうことを戸嶋は非常に誇りにしていました。
あの時代だから、例え不作の時でも年貢は高かったので、みんな飢え死にしなければならなかった。それで何とか年貢を下げさせようとして、中にはその直訴が通った場合もあったとはいえ、あの時代は封建主義の時代だから、直訴はご法度だった。通ったとしても直訴をした責任者は打ち首という時代だったのです。それが分かっていて戸嶋の先祖は直訴して、実際に打ち首になったという、そういう家柄であるということを、戸嶋は非常に誇りにしていた。
少し芸術とは違う話になったのだけれども、僕は誇りが戸嶋芸術を支える一番大きなものだと思っている。なぜ僕が、戸嶋芸術が好きかというと、戸嶋の絵の中に非常にそういう、誇りというか人間の持っている魂の中に在る一番の高貴性というか、犠牲的精神というと言葉は悪いかもしれませんが、人のために自分の命や人生を捨てるというのか、そういう高貴性というものを、戸嶋の芸術の中にすごく感じる。だから、そういうものが戸嶋の家柄から来る、家柄に対する誇りというか、そういうものが芸術を成して来たのだ思う。
戸嶋自体も、自分の芸術だけではなくて色々な人の芸術についていつも僕と芸術論をしていたのだけれども、その人の持っている芸術の中にある品格というものを戸嶋もすごく重要視していた。実名は挙げないにせよ、有名な芸術家でも、戸嶋の嫌いな芸術家に対しては、「あの人は、才能はあるけれども、あの人の絵には品が無い」という言葉をよく言っていた。だから逆に、例え無名の人でも、才能があると思う人に対して、戸嶋とその芸術家のどういうところが優れているかという話をすると、戸嶋はいつも「とにかくあの芸術には品があるんだよ!」ということを言っていた。
だから戸嶋の芸術観というか、その中に品格というものが占める割合はすごく多いということが言える。僕はその根底にある思想が、戸嶋の家柄から来る郷土に対する誇りとか、家に対する誇り、そういったものが彼の芸術のベースとしてあるからだと僕は思っているのです。
戸嶋というのは郷土の秋田を非常に愛していた。その戸嶋が秋田の中で何を一番愛していたかというと、秋田の森と雪と、それから太古の原風景といつも言っていた。つまり秋田に広がる原風景のことです。それを戸嶋は日本人の原風景と言っていた。僕は、それはつまり縄文のことだと思うのです。戸嶋も縄文からあるものだろうといつも言っていた。縄文のエネルギーです。
秋田の森の魅力というのを戸嶋はいつも喋っていたのだけれども、その秋田の森というのは、生きているのだということをいつも言っていた。「あの森は生きている。命があるんだ」ということを言っていた。縄文のエネルギーがそのまま、太古のままに生きている。それが秋田の森の原風景であり、生きている命なのだということを戸嶋はいつも言っていた。
だから戸嶋は高校を卒業して東京に出て来るまでずっと毎日、それこそ学校に通うのにも全部森の所を通っていたわけだけれど、それによって毎日縄文のエネルギーを受けながら通っていたということなのです。戸嶋が言っていたことで、僕が一番印象に残っているのが、普通東北人というのはすごく真面目で大人しいイメージがあるのですが、戸嶋は秋田人というのは実はもの凄い熱情を持ってると言っていた。とにかく心の底はもの凄いんだぞと、熱情や何かがどす黒く噴出して、途轍もない大きなエネルギーを抱えているということをいつも言っていた。それが秋田の文化なのだと。秋田が、千年、二千年以上に亘って縄文時代から培ってきたエネルギーが今の秋田人の、それこそ悪く言えばドロドロしたような大きな熱情エネルギーをもたらしているのだと。だから戸嶋は景色ももちろんのことながら、秋田人の持っている熱情、つまり情熱ですね。情熱の中に縄文時代から伝えられた日本人の激しい、自然と対峙した生き方、それを戸嶋は見ていたということです。そういう風に僕も聞いているし、戸嶋と話していていつもそう思っていたのです。
東北全部に言えるし、秋田は特にそうなのですが、とにかく一般にこの日本文明というのは、歴史的に言えば大和朝廷中心で、大和朝廷というのは米の文化で、弥生文化というものです。この弥生文化というのが歴史でいえば縄文の次に来るのですが、縄文時代の一万年、秋田人を始め、あの東北というのはものすごく栄えていて、実はこの弥生時代になってからの二千年に亘って、東北人は弥生文明にいわば圧殺されて非常に我慢させられて来たのだということを、戸嶋も歴史を見て思っているわけです。
それが悪く出ることもあるのだけれど、やっぱり爆発というのか、芸術として爆発する時には、それこそ秋田県だけではなく東北人が持っているすごい潜在意識のエネルギーとして出て来るのだと。そしてその東北人が持っている潜在意識のエネルギーは、弥生文明のエネルギーではないのだと言っていた。だから我々が知っている大和朝廷の二千年ではなくて、その前に在った日本の原風景である一万年の縄文時代のエネルギーが蓄えられ、これは本当に今考古学で分かって来たのですが、東北の方が日本でも一番発展してたわけです。だからその縄文時代一万年のエネルギーが東北に沈もれているのです。その沈もれているものが弥生文明によって押さえつけられて、それが悪く出た場合は鬱屈になるのだけれど、よく出る場合は爆発だと言えます。だから東北人というのは、棟方志功などもそうですが、巨大な芸術家、恐るべき芸術家というものを生み出している。それからお祭りなどを見ても、東北人の祭りというのは何か凄いよね。あれは言葉にならない縄文のエネルギーだということです。
それで戸嶋は自分も含めてそういう縄文のエネルギーに培われた芸術観を持ってるのだということをいつも話していた。それが秋田出身者としての戸嶋の誇りになっていたと。もしこれを嫌がっていたら多分悪い方向に出ると思うのですが、誇りにしていたからこそ戸嶋はその東北人が、秋田人が持つエネルギーを戸嶋芸術という、人間の生命を抉るような芸術としてこの世に残せたのだろうと思っています。
縄文のエネルギーというのは悪く出ると鬱屈するという話を今しましたが、良く出せれば溌剌とした人間の生命エネルギーの生命讃歌になるわけです。戸嶋はそれを良く出せる素地を持ってたのだと僕は思う。これは生命の讃歌なので、ある意味では東北人が非常に大変なのは、1+1が2とか、2+2が4というような合理的なものではないのです。この東北人の能力というのは、もっと生命讃歌だから爆発的なものなのです。だからそこのコントロールが非常に難しい。戸嶋も非常に苦労しながら、最終的にコントロールに成功していったのだろうと思います。
さて戸嶋展のテーマでもある焔と闇というのは、その溌剌としたエネルギーが情感として燃え立てばもちろん焔になる。逆にそれが鬱屈して、悪い言葉で言えば恨みになれば、それが闇として出て来るのだと。
ただし僕は戸嶋芸術をずっと見ていて思うのですが、戸嶋は縄文的なもの、東北的なものを良く出したと言っていますが、実は良く出すということは、悪いものも沢山持っていて、その悪いものを隠すというのではないのだけれど、悪いものも沢山抱えて、その悪いものを嫌がらない。愛するというのか、自分が持っている悪いものを愛すると言う気持ちが、エネルギーを溌剌の方に向かわせると思うのです。それを戸嶋芸術を見ていて僕は思う。
そして戸嶋も、家柄から来る育ちの良さ、つまり坊っちゃん性がある。その坊っちゃん性というのは悪い言葉でいうと人の良さみたいなところで、それが戸嶋に、悪いものを抱えたまま溌剌としたエネルギーを芸術にぶつける力をもたらしたのだと思うわけです。だから焔と闇というこの展覧会の題が示すように、焔というのは闇がないと生まれないということなのです。そして、焔がなければまた闇もない。だから闇というのは悪いものではないということなのです。ところが現代は、民主主義と科学による合理主義の時代で、闇をマイナスなものとして捉えている。少なくとも僕はそう感じるのですが、そうすると本当に闇が生きなくなってしまうといいますか。だから戸嶋芸術というのは東北が持っている縄文エネルギーの闇が生きている芸術だと思う。その闇が生きるにはどうすれば良いかと言えば、焔が生きてるからこそ闇が生きると言えます。だからこの焔と闇というのは両輪であるべきで、両方なければ駄目だということなのです。この両方なのだけれども、これは焔と闇なので、黒と赤みたいなもので、いつも交錯していて、矛盾していて、対立しているわけです。だからこれを全部抱えるということは、苦悩のなかを生き抜くということなのです。
僕が戸嶋を一番尊敬しているのは、戸嶋は死ぬまで自分は無名のままであり、それから食うのもやっとであるということでしたが、それでも最後まで芸術にぶち当たって、自分の芸術を全うして死ねれば良いという考えで生き切ったところです。僕はそこを一番尊敬しているのですが、その生き様こそが、縄文以来の焔と闇を戸嶋がキャンバスの上に表わせた原因ではないかと思っているのです。
だから東北人というのは、実は縄文から来ている焔と闇を全員が持っているということです。東北の人間は戸嶋の絵を見て、戸嶋が焔と闇を体内に持ったまま、合理主義の現実社会にぶち当たって、もちろん随分と挫折もし、苦労もし、苦悩も受けた。僕は戸嶋の生涯を良く知っているけれども、本当に苦しんで生きていた。しかしその苦しみから戸嶋は逃げなかったから、焔と闇が芸術として生きたのではないかと思う。だから僕は東北人というのは、別に芸術家でなくとも、商売人でも何でも、現実にぶち当たっていれば、この縄文以来の焔と闇が商売の中に生き、農業の中に生き、何にでも生きるのではないかと思っている。戸嶋はたまたま芸術の中に活かしたということです。この焔と闇というのは、縄文から来た東北人が抱える根本的な問題だと今でも思っているのです。
その焔と闇で僕が一番好きなものが、それらは生命の讃歌だということです。生命讃歌というと、現代人は皆、素晴らしいものだと思うかもしれません。ところが生命讃歌というのは実は燃えるエネルギーもあるけれども、人間が持っている悲哀とか、それから生命が持つ哀しみとか、そういう闇も沢山あるということなのです。だからその縄文人が持っていた生命讃歌というのは良い意味だけではない。本当に不幸とか悲劇とか、自分の中にあるそういったものを抱える勇気というのか、そういうものを持つと僕は縄文のエネルギーが生きて来るのではないかと思う。戸嶋はそういう不幸を逃げないで抱えたから、芸術の中に縄文エネルギーを活かせたのだと僕は思っている。
生命讃歌について先ほど少し述べたけれども、今回の展覧会に展示される戸嶋の絵を通じて、来た方に一番知って頂きたいのは、自分の生命を愛おしむには、善悪を超越した人生に挑戦しなければ駄目だということなのです。生命というのは、良いことだけをしようと思っても駄目だし、悪いことだけをしようと思っても駄目なのです。自分が持っている先祖から来たエネルギーを全て何かにぶつけるということなのです。戸嶋はそれを芸術にぶつけた。その芸術にぶつけた戸嶋の迸る血潮の跡が、戸嶋の絵画とか彫刻とか彼の芸術作品に残っているので、この展覧会で是非、特に東北の方には、戸嶋が体現した縄文エネルギーの活かし方を、戸嶋の絵から学んで頂きたいと思っているのです。
先ほどから言っている、縄文エネルギーが弥生文化によって圧殺された、その圧殺の歴史が東北人の粘り強さとか、それから戸嶋流の言葉で言うと「不器用さ」といった、良い方で言えば何か凄い力を生み出しているということです。それにプラスして東北地方は特に雪が激しいところなので、その雪に閉ざされた生活というのが圧殺されたエネルギーをより深めたということなのです。
だから雪国がどういうことなのかというのは、有名な川端康成の『雪国』という文学があって、あれの最初の一行がやはり雪国が何なのかということを全て示していると思う。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」と言う言葉です。簡単な一文章なのだけれども、国境ということは一つの文明の境目です。国境の意味は文明と文明の境目ということです。長いトンネルということは、何にもないその地下を潜って行くということです。そこを抜けると雪国だったということは、弥生文明の中で生き抜いた縄文の姿をも彷彿させる。自然現象というのは人間の文明と割とリンクしているというか。だから僕は縄文エネルギーを本当に温存してそれこそ冷蔵庫ではないけれども、ずっと弥生文化の二千年間、縄文のエネルギーを閉じ込めていくというか、そのために僕は東北が、特に裏日本が、凄い雪国となったのではないかという印象を持っているのです。この話は戸嶋にもしたことがあるのだけれども、非常に面白い見方だといってとても褒められた。文明論の一つとして、真面目な話、僕はそういう気がするのです。川端康成のこの文学が示しているように、やはり雪国というのは縄文の焔と闇のエネルギーがずっと、千年二千年閉じ込められて残っていた地域だということです。雪というのはやっぱり冷蔵庫だから、冷蔵庫というのは簡単に言うと保存と言えます。
僕は東北というのは、日本の原風景、一番美しくて清純な日本人の最初の初心というのか、清純な心が残っているところだと思う。その残った一番大きな要因が、雪に閉ざされていたということなのです。僕はそういう風に捉えています。川端康成のような文豪が雪国をそう捉えたのも、多分、川端康成と話したことはないけれども、同じ思想だと思います。戸嶋自体もやはり、雪に閉ざされた生活の中から自分の不器用さが発展したということは言ってたよね。それもあるけれども、もっと大きいのは圧殺されるその力に対して耐えるということです。耐える力というのが、やはり雪がもたらす最も大きい力だと思う。そしてその雪が溶けることによって爆発エネルギーが生まれるわけだから。その爆発エネルギーというのが、やはり僕は偉大な芸術を生むのだと思う。
だから、僕は文学においても、音楽においても、それから色々な芸術、バレエでも何でもそうだけれども、やはりロシアというのは偉大な文化だと思うのです。トルストイを読んでも、ドストエフスキーの文学を読んでも、やっぱり雪が溶ける時の、あの春が訪れて来る時の爆発的な喜びというのか。あれはやはりロシアないしシベリアの雪に閉ざされてる人でないと分からないのだと思う。ロシアはロシアでもちろんそういう文化があるのだけれども、僕は東北が雪に覆われているというのは、縄文エネルギーが閉じ込められたのだと考えているということです。だから東北人というのは雪解けとともに縄文の、日本人が持っているその原風景というかな、そういうものを思い出すのではないかと、そう思っているのです。
トルストイの『復活』という作品の中に、僕も好きな「春は、やっぱり春であった」という非常に有名な言葉があるのだけれども、この春の喜びというのか、それはやはり雪に閉ざされているということなのです。それで僕の場合は哲学が大好きなのでそれを例に出すと、ミゲール・デ・ウナムーノとか、ゼーレン・キルケゴールとか、そういう人たちが、皆人間が持つ真の希望について色んな哲学で語っているのだけれども、やはり皆言っているのは、人間が持つ本当の生命的な希望というのは、絶対に絶望がなければ本当の希望は摑めないのだということを、キルケゴールもウナムーノも、著作のほとんどにそれが書いてある。
そしてその条件が揃ってるのが雪国であり東北であり、最も人生に良く出れば、本当の人間が持っている希望が活かせる地域的特色だと思う。そして戸嶋は良い意味でやった人だと思っている。それは戸嶋が自分の考える芸術にぶち当たり、それを全部この世に残したからだよね。それが雪国の力として不器用さの中に現われていると言っていた。僕などは雪国の生まれではないので分からないのだけれども、戸嶋の話を聞いていたら、特に昔の雪のすごさは大変なものだったらしい。ただ、縄文エネルギーを閉じ込めるという意味では本当に神の恩寵というか摂理だと思える。もしくは東北が雪国でなければ、縄文のエネルギーは閉じ込められないで、長い歴史の内に放散して、散ってしまっていたのかもしれない。でも散らなかったのは、僕は雪が大きいと思う。だから人間が持つ本源的希望というのだけれども、本当の希望というのは、閉ざされたことによって生まれてきたというのか。だから戸嶋も非常に雪が好きだった。戸嶋は自分の運命を愛しているから、雪も愛していたというか。それにきりたんぽの話とか、食べ物の話もよくしていたよ。雪に閉ざされている中できりたんぽを食うと、あれはたまらないんだと。執行さんは知らないから可哀想だなと、そういうことをよく言っていたのです。
だから戸嶋というのは考えようによっては、非常に貧しい生活だったし、芸術家としては無名のまま終わって不幸だったという捉え方をしている人もいるけれども、僕自身は、戸嶋は本当に幸福な人生だったと思う。本当にものにぶち当たって、自分の心と直面して、自分の考える芸術だけにぶち当たって死んでいったわけだから。僕は本当に幸せな人だったと思う。それから、それこそ僕とも偶然にも縁があって、自分が死ぬ直前に記念館までできてしまったわけで、そういうのも、僕は偶然ではないと思う。やっぱり戸嶋が人生にぶち当たっていた証だと思う。
戸嶋と僕は出身の血はまるっきり逆で、僕は九州で、戸嶋は東北と。面白いものが生まれるというのは、先ほども少し話したのだけれども、結局、矛盾がぶつかりあって火花を散らして、その中から一つ出て来るのです。昔はドイツ語で「止揚」(アウフヘーベン)というのだけれども、一つの高いものが生まれて来るというのは、結局ぶつかり合いなのです。だから全く違う血を受けた人間同士が出会ったことによって、戸嶋にも刺激になったし、僕にも刺激になったし、それがまた記念館という形としても残っていったのだと思う。かえって違うから良いと言うか、違うから喧嘩になってしまう場合もあるけれど、喧嘩にならないでその火花が新しいものを生み出す場合もあるということです。先ほどの縄文の焔と闇の質問に対しても少し話したけれども、闇に負けても駄目だし、焔に負けても駄目だし、焔と闇がいつもやりあってる状態、この中から何かが生まれて来るということなのです。これは弁証法といって哲学上の概念であり、思考回路なのですが、矛盾と矛盾がぶつかり合って、一つの新たな価値を生み出すわけです。これが僕は人間の文明の根本的な姿だと思うね。
まず高校時代の作品というのは今でも数点残っていて、今度の展覧会にももちろん出品されているけれども、戸嶋という人間がどういう人間かということを僕なんかは個人的に知り合って、魂のレベルでよく知ってる。だからこそ思うことなのだけれど、戸嶋の高校時代の作品というのは凄く良い意味で伝統的なのです。それで大人しい。僕は基本の習得にもの凄く修練してたように感じるわけです。戸嶋というのは凄く激しい人間なのですが、その激しい人間の絵ではない。非常に伝統的。だから戸嶋のいう東北人的な不器用さ、生真面目さ。そういうものを非常に感じるということです。それで感じるのだけれども、どうして戸嶋がそういう風に油絵の基本を特に高校生の時にやっていたかというと、僕はやっぱり先生との繋がりだと思う。戸嶋も死ぬ日まで高校の恩師の話は僕にもしていたのだけれど、特に栗盛大地という先生と、伊藤弥太という先生。この二人の名前はいつも出ていた。二人から油絵を描く人間としての心得というか、習練というか、芸術家などになる前の、人間が絵というものを描く、また好きになる理由を、高校時代に二人の先生から学んだということを戸嶋が語っていたのを僕は何度も聞いている。それも口だけのことではなくて、その先生と何かで交換した作品なのだけれども、最後まで二人の描いた作品は家に飾って仰ぎ見ていたというか。そういう姿勢があったということです。とにかく二人の先生とそれ以外に、県立の大館鳳鳴高校だよね。とにかく戸嶋というのは、大館鳳鳴高校を出ていることが本当に誇りで、ずっと僕にも、鳳鳴高校の話をしていた。
その中に美術の二人の先生の名前ももちろん入っているのだけれど、鳳鳴高校全体の話も多かった。戸嶋は武蔵野美術大学を出ているのだけど、武蔵美の話のほうがほとんど出ない。だから僕は鳳鳴高校のことは詳しいのです。僕は卒業生だと偽っても必ず通る。何でも知っている、鳳鳴高校のことは。そのくらい戸嶋が、僕に話していたということです。
その誇りというのは、やっぱり戸嶋の中で栗盛先生とか伊藤先生から受けた恩義が大きいのだと思う。それで戸嶋が武蔵野美術大学に上がってから非常に自分の芸術となる根本を学んでいくのだけれども、その根本を学ぶ前の最も絵描きとして重要な部分というか、戸嶋が言う「品格」だと思います。その品格の部分を伊藤先生とか栗盛先生から学んだように思う。僕は伊藤先生と栗盛先生の絵も少し見させて頂いたけれども、やはり非常に人間的というか、現代の作家にはないような、人間的な面が非常に強く出ていた。だからそういう面を戸嶋は特にこの二人の先生から学んだのだと思う。だからこそ尊敬も大きいし。尊敬心からそういうものが来たのだと思う。
シュールリアリズムの作家などもそうだけれど、本当に凄い芸術を生み出していった人というのは、とにかく真面目。これはやっぱり、人間として、重要なことだと思う。人間というのはやはり清純で、真面目でなければ、それこそ不良にもなれない。昔の不良というのは結構、清純だったから。戸嶋の生き方というのは、芸術の革命的な生き方をしていたのだけれど、新しいものにどんどん挑戦して、革命的な一筋の道を行くというものも、戸嶋が言う東北人的な不器用さ、つまりは真面目さ。そこから生まれたんだと思う。そしてその基礎は、やっぱり高校時代の先生から受けたものだと思う。そう戸嶋も語っていた。
やっぱり戸嶋はそういう恩師との、高校もそうだし大学も、それから大学を出てからも非常に素晴らしい出会いがある。その素晴らしい出会いがあるというのは、やはり戸嶋の持っている情熱だと思うのだよね。だから出会いというのは偶然なのではなくて、戸嶋の持っている情熱がその素晴らしい出会いを生んだというのか。だから、伊藤先生や栗盛先生のことは、僕は直接知らないし、会ったこともないのだけれども、多分、戸嶋の中にある、激しい芸術に対する憧れというか、そういうものを先生方も感じていたのだと思う。だから、戸嶋が生涯忘れ得ぬ恩師としての愛情も与えることが出来たのだと思う。