戸嶋は秋田県立の大館鳳鳴高校を卒業して、母親は秋田で仕事をするために残ってほしかったのだけれど、戸嶋はどうしても画家になりたくて家出して武蔵野美術学校を受験して入った。親の反対を押し切ったので、それからは戸嶋への仕送りもなく、ただ貧しい生活となった。そういう生活の中で、自分でアルバイトをしながら美術の道を歩み出したというのが戸嶋の武蔵野美術学校での生活だと言える。
武蔵野美術学校で一番重要なことは、いろいろあるのですが、最も大きいことは戸嶋の芸術を一生涯支配し、戸嶋の芸術が持っている野蛮性と高貴性の交錯だと言える。野蛮性と高貴性だから、これは矛盾しているわけだが、この矛盾している野蛮性と高貴性、生命や物が持っている野蛮性とか高貴性を見出してそれを抉るようにして描いていくというのが、戸嶋芸術の根源になっていく。その根源を完全に自分なりに会得したというのが、武蔵野美術学校で戸嶋が学んだ最大のことだったと思う。戸嶋が入ったときにはまだ大学に昇格していなくて武蔵野美術学校という名称だったけれども、その頃の昭和三十年代初めの武蔵野美術学校というのは最も躍動していて、命懸けで芸術に当たる人たちが、戸嶋だけではなくて、何人もいた。そういう時代の武蔵野美術学校ですが、戸嶋がいる途中から大学に昇格した。そういう所で学んだというのが、戸嶋の最大の幸運の一つだとも言える。
それで今言った高貴性と野蛮性というのが、戸嶋が芸術の根本として自分なりに摑んで、それを一生追い求めたものだと言える。まず野蛮性の部分ではおしなべて大きく言えば、麻生三郎という当時の大家が教授でいたのだけれども、その麻生三郎から学んだことが、野蛮性の根源思想になっている。野蛮性の根源思想というのは、麻生三郎が戸嶋に言っていたそうだが、相手の命の中に入っていって、相手の命を抉り出すような、「触れれば血が噴き出るような」描き方です。そういうことをしなければ駄目だということを麻生三郎がずっと言っていたそうです。それが戸嶋の中に非常に深く入って、その命を抉るような描き方をする。絵画を描くというのは、描く人間と、描かれる人間の決闘なんだ、戦いなんだということをいつも言っていた。僕にも言っていた。肖像画を描いてもらっている時にね。そういう描き方の根本を学んだということなのです。
本当に当時の武蔵野美術学校では、麻生三郎も全部言っていたことだけれども、絵を描くというのは、例えば人物画の場合では、絵を描くということは相手を殺すんだということを言っていた。今の時代にそんなことを言ったら大変なのだけれども、でもあの当時、芸術家は皆そのくらいの気持ちで、相手の存在とぶつかり合うというのか、そして戸嶋はそういう麻生三郎の思想に非常に感動して、自分も生涯それを追い求めていた。だから最晩年にずっと僕の肖像画を描いてくれたわけだけれども、「よーし、今日はどちらかが倒れるまでやるぞ!」とよく僕に言っていた。要するにどちらかが死ぬまでということです。今日はどちらかが斃れて死ぬまでやろうじゃないか、という言い方で肖像画を描くことに突入していった。僕を描いたのは七十前後のことだけども、戸嶋がその根本は武蔵野美術学校で麻生三郎から二十歳の頃に学んだということなのです。また戸嶋がずっとそれを大切にしている人間だということが重要なことだと思う。
野蛮性は今言った麻生三郎で、もう一つは高貴性だよね。高貴性はやはりその当時の武蔵野美術学校の絵画の教授をしていた、もう一人の巨匠で、これは山口長男(たけお)です。一般には山口「ちょうなん」と言われている。長い男と書くわけだけれど、抽象画で日本の画壇では非常に名を成していて、日本的抽象画というものを確立した本当の第一人者と言えます。偉大な画家で、その人に直接教えてもらって、それで戸嶋自身が自分で言っていたけれども、絵画が持つ高貴性、絵画の中に生命とか物が持っている高貴性を落とし込む、その苦悩と言うか、やはり闘いなのだけれども、その戦いを自分は山口長男から学んだと言っていた。
それを学ぶには山口長男がどういう姿勢で、物とか生命と対峙しているか、ということです。それはもう戸嶋が学生時代を振り返って説明してくれたことがあるのだけれども、要するに相手の生命、物も含めて相手の命の中にある命を畏れる気持ち、命を仰ぎ見る気持ち、そういうものがあると、相手の命の中の高貴性が落とせるのだという、そういう言い方を山口長男はしていた。それをまた戸嶋は自分の芸術にしっかりと摑んで、死ぬまでやり通したということです。言葉としては相手の命を畏れるということはどういうことかというと、要するに気持ちとしては祈りの気持ちです。相手に対する祈りの気持ちを持つということ、それが「高貴性」を見出すのです。やり方なんて言うとちょっと言葉が悪いですが、方法論のこと。そういうことを山口長男から学んだということです。
この根源にあるのは愛の問題なのだけれども、本当に相手とか物とか、好きな物とかもそうですが、そういうものを本当に愛する気持ちがあって見ないと、相手の中にある高貴性は自分の中に入って来ないということです。それは山口長男の作品から、作品というか絵を描く姿勢から学んだということを戸嶋は言っていた。だから山口長男の作品というのは、僕は好きで随分と集めているのだけれども、山口長男の作品を戸嶋と見ながら、その中にある生命の高貴性というか、そういうものをいつも戸嶋と絵画論、芸術論で議論し合ったわけです。その時にいろいろ戸嶋が言っていたことが、今話したようなことだと言える。
今言った麻生三郎と山口長男から学んだ高貴性と野蛮性ですが、この交錯、また矛盾。だからその矛盾の苦しみだとか、慟哭と言うか、心のその慟哭とか苦しみに耐え抜くのが本当の芸術の道なのです。それが芸術家としての道だということを、戸嶋は武蔵野美術学校の時にしっかり摑んでいた。そして戸嶋の偉いというか素晴らしいところは、それを本当に72歳で死ぬ日まで、真実だと自分が思ったものにぶつかり続けたということです。そういうぶつかり続けたこと自体が僕は戸嶋靖昌という人間が持っている芸術の才能だと思う。やり続けられたということ自体が才能だということ。
矛盾や高貴性と野蛮性の交錯に対してぶつかっていくことが、戸嶋の人格を形成した。だから戸嶋というのは、人によっては、極端にいうとあの人は悪魔だと言っている人もいるくらい。あれは完全に人間ではない、悪魔だということまで言っている人がいるのです。それは戸嶋が持つ野蛮性の部分を見てしまった人なのです。これはもう仕方がない。だからその交錯の苦しみの中を闘い続けて生き続けた人が戸嶋で、それが戸嶋芸術に、つまりキャンバスの上に叩き付けられているということです。
今僕は武蔵野美術学校で学んだ絵画について話したのだけれども、武蔵野美術学校で実際に席を置いたのは彫刻科なのです。彫刻科で教授は清水多嘉示という人です。清水多嘉示というのはブールデルの弟子で、ブールデルというのはロダンの弟子だから、要するに清水多嘉示というのはロダンの孫弟子になって、ブールデルの弟子になる。それで清水多嘉示と同期でブールデルに学んでいたのがジャコメッティだ。そういう人から戸嶋は彫刻を学んだ。結局、戸嶋は結果として彫刻家としては立たなかったので、今絵画のことを話していますが、戸嶋自身は武蔵野美術学校の彫刻科にいたときに、今言った高貴性と野蛮性の交錯したものをキャンバスの上に表わすには、基本的には彫刻のやはり生命的なものを把握する力、量を把握する力がないと、彫刻というのは良い物が創れない。つまり、量塊、量、マスと言うか、筋肉も含めてそのマスというものを量として受け取る力が無いとできないと。それを戸嶋は彫刻の修業によって、何とか自分は会得したいと思ってきたし、会得できてきているのではないかということをいつも語っていた。
僕自身はもちろん戸嶋が武蔵野美術学校の彫刻科を出ていると知らなかった。戸嶋が画家だと思っていたので、最初に戸嶋の絵を見た時に僕が感じたのは彫刻的な絵だということなのです。これは見た人が大体感じると思いますが、戸嶋というのは彫刻的、つまり構築的。そして構造的であり重層構造的なのです。だから要するに建築みたいだということ。建築というのは彫刻です。それは武蔵野美術学校の彫刻科で学んだことだと思う。
それで、彫刻というのはその力としては、言葉は難しいんだけども、生命の求心力なのだよね。量塊、量を塊として摑むということは、求心の力です。要は、引力のことです。戸嶋の言葉では「絵画というのは、一つの摑んだものを宇宙へ放散する力なんだ」ということ。つまりこれは放散だから、斥力です。引力と対立するもので、引力と斥力があって、斥力になるものが絵画だということを僕も戸嶋の絵を見て感じるし、戸嶋もそう言っていた。
彫刻というのは引力で求心力なのです。戸嶋が武蔵野美術学校で彫刻科を出ているということは、非常にこの求心力(引力)と遠心力(斥力)のせめぎ合いの闘いというか。それが戸嶋絵画の魅力になっているということです。それはそういう彫刻の基礎力を戸嶋が修業したということなのです。その引力と斥力の葛藤という言葉を使うけれど、その葛藤が一つの戸嶋芸術のダイナミズムを生んでいるということです。だから高貴性と野蛮性の葛藤と交錯と、求心力と遠心力。この斥力というのは遠心力のことだから、求心力と遠心力のせめぎ合いです。これを得るためには、芸術の基礎としては、彫刻の修業が必要となる。彫刻が求心力、絵画が遠心力で、この二つがせめぎ合ったということが、戸嶋絵画に凝縮している。戸嶋絵画を鑑賞する人はその構造的な、構築的なところを見て欲しいということです。そうすると戸嶋がどうやって苦しんで自分の芸術を生み出していったのかということが分かってもらえるのではないかと。
これは戸嶋も言っていたし、僕も自分の人生でも思うのだけれども、やはり本当の何かを成す芸術にしても、事業にしても、物事を成すというのは、一番重要なものは「勇気」になる。勇気が無かったら、今言った矛盾対立するものを、苦悩の中でそのまま人生を懸けて体当たりなんかできないわけです。その体当たりをさせるものというのは、やはり勇気なわけです。だから戸嶋と僕なども人生論を話したわけだけれども、やはりいつも結論としては、人間というのは勇気が一番大切だということを僕も思うし、戸嶋もいつもそう言っていた。芸術も全部です。やはり戸嶋の人格的才能としては、勇気があったのだと思う。その勇気というのは、第一回の時にも話したかもしれないけれども、秋田の太古の、縄文以来の森とか、太古の雪に閉ざされた縄文のエネルギーが、僕は戸嶋の勇気の根源ではないかと思っている。
戸嶋は当然、森の中に鎮もれている人間の原初の魂、原始の魂、それを描きたかったんだ。その描きたいという気持ちは、秋田で縄文エネルギーを受けて、戸嶋という人格が形成されて、それが偶然武蔵野美術学校に入ったことによって、また僕は凄く運が良かったと思うんだけれども、この武蔵野というのが、今言っていたように、これがまた日本の縄文文化の代表なのです。だからその縄文文化の代表の、まだ戸嶋が美術学校に入った頃というのは、僕もまだ小さい頃のことだけどよく覚えていて、まだ武蔵野の景色が全部残っていた。武蔵野の森とか林とか雑木林とか、景色の多くが無くなったのは、昭和四十年以降なのです。だから戸嶋がいた三十年代、二十年代終わりから三十年代というのは、僕がまだ小さい小学生の頃なのだけれども、全部残っていてそれは素晴らしい景色だった。僕も武蔵野の雑木林が多かったのだけれども、そこに太古の人間の息吹というのは感じた。
それを戸嶋はもっともっと深い意味で、秋田から来たから感じられたのだと思う。だから武蔵野に来ても、森を描き続けた。それで、森を描き続けたということは、縄文以来の太古の人間の魂を描こうとしていたことだということなのです。
埴谷雄高とか、東大教授だった丸山眞男なども有名だけれど、その人も吉祥寺に住んでいた。作家の埴谷雄高も住んでいた。それは人間の持つ太古の魂の深淵から来るエネルギーを、やはり感じたんだと。だから非常に学者とか芸術家とか、そういう人が、特に昭和三十年代の武蔵野市とか吉祥寺には多かった。今でもはっきり覚えている。
だからそういう戸嶋というのは森から生まれる、特に森の中に人間の魂を感じるということは、もちろん言っていたけれども、それ以外に森から見上げる光と言うのか、それは戸嶋流の言葉で言うと《逆光の森》という言葉を使っている。逆光の光線のことです。その逆光の光線の中に、人間の原初の溌溂とした、まだ神から使命を受けたばかりの頃の人間の持っている原初の魂を戸嶋は感じている。それをまた口でも言っていたし、キャンバスの上に表わそうとしているよね。それが歴史的な言葉としては縄文の魂なのだと思う。原初の魂とはそういうことだから。
《逆光の森》という題の絵もあるし、その森の中、木漏れ日じゃないけども、森の中から見上げる太陽だよね。それに非常に人間の原初の崇高な、清純だった魂を戸嶋は見い出していたということなのです。そこにすごく生命の働きを感じるということは言っていた。その逆光の光線に、森の中から見上げる光です。それに非常に人間としての生命の働きと言っていたけれども、「生命の働きというものを感じるんだよ」と言っていた。だから森の作品が多いのだということを、僕に話していた。
大体が秋田から出て来て、あの当時の武蔵野にあった大学に入るということ自体が、僕は戸嶋の一つの縄文エネルギーを会得するための運命を感じる。昭和三十年代というと都心の方はもう武蔵野の感じではなかったから、東京は全然違っていた。府中とか、吉祥寺以降は、昭和三十年代は、まだ自然が非常に凄かったから。武蔵野というのは何か僕も懐かしいけれども、何か特別のものがある。縄文時代は一番発達していた地域なのです。これは考古学でも分かっている。秋田もそうだし、武蔵野の今の府中とか、あの辺ですね。東京の中心地ではない。あちらの方が縄文時代ではもの凄く栄えていたのです。
これは戸嶋がずっと喋っていた高貴性と野蛮性の模索、それから求心力と遠心力、引力と斥力のせめぎ合い。そういう芸術の根源に、戸嶋は勇敢な人だから裸一貫で突入していったわけです。だから裸一貫で体当たりです。戸嶋の青春を知っている人に、友達などに話を聞くと、もう「夜叉のようだった」と。戸嶋の生活というのは貧しいということもあったけれども、夜叉のような激しさだったということは全ての人が言っている。その戦いと言うのかな。
とはいえさすがに生身の戸嶋というのは、三十代になってきて段々とそれが解決不能の悩みにもなってきたわけです。そこからが大型作品とか、赤と黒の混合、それから最終的には黒の石化というあの大型作品、外面的には暗い作品なんだけど、そういうものの中に現われている。
大型作品を描くから、エネルギーが余っているだろうと思うと、実は逆で、戸嶋の中ではエネルギーが割と衰退と言うか、死ぬ前のエネルギーと言うか。死が近づいてくるだけ、爆発的な生きようとする力が作品まで大型になったということなのです。その頃に赤と黒、また紺が混ざって赤と紺、それから赤と黒、それから黒と白、それから真っ黒になるのだけれども、そういう大型作品にどんどん、どんどん戸嶋の悩みがもう、だから死に近づいている戸嶋の生存が作品になっているということなのです。そして黒の石化に至って、ほとんど僕はその頃の戸嶋は現実には知らないけれども、僕は死んでいたと思った。芸術家として、だから討死というのでしょうか。それを悪いとは思わない。
丁度その頃が三十七、八歳に向かう頃で、四十歳手前です。スペインに行く前の時期です。だから後で話すけれども、スペインに行くことで戸嶋は生き返ったわけだから、僕は日本に三十七、八から三十九歳までの間に大型作品に命の噴流と言うか、命の雄叫び、生きようとする命の雄叫びをぶつけて行く過程をあの大型作品の中に見るということなのです。戸嶋は僕流の言葉だと、多分三十八、九で討死していたんだと思うんだ。戸嶋というのは、そういう芸術家なのです。だから実際には四十手前で死んでいたのではないかと。ある意味では偉大な画家たちと同じだと思う。
ところが戸嶋の場合には違う経緯から、スペインに行くことによってまた再び生き返るということがあるのだけれども、その時の死に向かっての作品が、あの大型作品の抽象画と言えます。赤と紺、赤と黒、それから黒と白、それから黒の大型作品に叩き付けられた戸嶋の憤怒と言うか、一つの憤怒、怒りです。それが僕は二十歳の頃から毎日のように闘い続けた結果なのではないかと。芸術的な生活というのは、それは生身の人間だから疲れもあるわけです。これは多くの芸術家が経験することで、真面目な人はみんな経験する。これは別に芸術家だけではなくて作家でもそう。だから大体、四十歳前後というのは、多くの作家もみんな一回死にそうになる。事業家もそうです。僕なんかの知合いの事業家も四十歳手前で死んだ人は多い。だからそういうところをどう乗り越えるかというのが、人生にはあるわけだけれども、戸嶋は乗り越えることには成功したけれど、その時には死に向かっていた。
だから三十代の戸嶋というのは、確実に死に向かっていた。一直線に戸嶋芸術はそっちに向かっていたということです。苦悩や呻吟が特に激しい時代。だから精神的には破滅という、一般に破滅だよね。破滅に向かって突き進んでいたということなんだよ。基本的には死に向かって、却ってエネルギーの放出量が大きくなったという。人間にはそういう働きがあるんだよ。死ぬ前にエネルギーが却って噴出するというのかな。
今回の秋田県立美術館の展覧会くらい大型作品が一度に出るというのは、今後なかなか無いのではないかと思うね。あれほどの大型作品はなかなか並べられないので、今度の展覧会に来られた方は、死に突っ込んでいく、突進していく戸嶋の姿を是非見てもらいたいです。その大型作品を観るにあたっては、戸嶋のように本当に真摯に生きた人間が、生命の持つ悲哀などを舐め尽くした姿というか。僕も色々見ていて、凄い量の悲哀を舐め尽くしたんだろうと思う。そしてその中で、戸嶋の中に在ったディオニュソス性というか、魔人性というか、そういうものが全部渦巻いて、もうどう生きていいか分からない。もう生きることもできない、かといって死ぬこともできない。どうしたらいいか分からないという、そういう大きな紅蓮の坩堝というか、それが戸嶋の大型作品には表われている。元々は縄文エネルギーから来て、それをどうまとめるかの手前のところの作品と言える。
戸嶋から直に三島事件のことについて聞いているのと、僕も三島由紀夫の文学がものすごく好きなので、特にそこには縁を感じる点です。僕は三島由紀夫に高校生の頃に会って、文学論を色々させてもらったこともあるし、三島由紀夫に非常に可愛がってもらって、書なども沢山もらっているので、戸嶋も三島文学が好きで、三島文学の話なんかでもすごく共感しあったというか。そういう仲だった。
三島が死んだのは1970年の11月で、僕がちょうど大学に入った頃で、1970年というと戸嶋が丁度三七、八歳くらいかな、そのぐらいだと思う。本当に四十歳に向かって死の直前にあって、それが三島由紀夫の事件によって、押さえつけられていた戸嶋の苦悩などが全部すっ飛んだということを言っていた。このことで何か吹っ切れたことによって、戸嶋は心機一転して、まずはベラスケスの研究のためにスペインに行こうと決意した。それによって結果論として戸嶋は救われて、第二の戸嶋の芸術期が花開いていくわけなのだけれども、その契機になったのが三島の事件ということです。
これは内容的にはどういうことかというと、三島由紀夫というのは、当時を知っている人なら皆分かっていると思うけれども、空前絶後の名声を日本で得ていた作家です。三島由紀夫ほどの大文豪というのはもう今はいない。僕も文学が好きで、高校生の頃に三島由紀夫と文学論をさせてもらったことを今でも誇りにしている。三島は日本で最高の文豪だった。文学者であり、つまりは日本最大の芸術家だったのです。そして戸嶋も三島文学が好きだったから、三島由紀夫のことを芸術家としてすごく尊敬してたわけです。ところがその三島由紀夫が市ヶ谷の駐屯地に突入して、切腹して、みんなが仰天するような死に方をした。そしてあの死に方の中に、僕も戸嶋も感じたけれども、ああいう優れた芸術家の抱えている葛藤の激しさ、虚しさ、それを見出したというか。
中でも戸嶋が見出したのが、三島由紀夫ほどの名声の頂点にいた人間でも解決できないほどの葛藤を抱えていたという事実なのです。そして戸嶋が素晴らしいのは、全てを投げ捨てて芸術に生きて来たと。そう戸嶋に出会った人の多くが言っている人なのだけれども、それでも戸嶋自身は三島由紀夫の事件を契機として、自分の中にどこか名声、名誉が欲しい、有名になりたい、お金が欲しい、そういう野心があったということに気づいたらしい。これは、僕は凄いことだと思います。そういう事に気づくこと自体がすごい勇気だと僕は思う。それでなくとも常に死にそうな人生を送ってきているのに、彼の人生上には、実際はそんなことはないわけだから。だけど戸嶋は全てを投げ捨ててやってきたつもりだけど、まだ自分のなかにはそういった欲が残っていたと、三島の事件を機に気づいたということです。あれほどの名声を得て頂点に立っても、真に人間たらんとすれば、それだけでは満足できないということが分かったということなのです。僕はそれによって、戸嶋がもう一回人生をやり直して一から出直そうと思ったのだと思う。それから計画したのがスペイン行きです。まず行くにあたっては第一に、好きなベラスケスの研究をするということがあった。だから最初は一年の予定でまず行ったわけです。それはまた、スペインに行く回で話しますが、そういう契機となったということです。
三島の事件を契機として、戸嶋はここから本当に現世的欲望の全てを捨てたということです。だからスペインに行って以降の戸嶋というのは、ある種、仙人というのか、そういう感じだと思っていいかもしれない。これ以降は、自分の芸術にどれだけ突進して行けるか、そして死ぬまでそれだけで行こうと思ったということです。その決意ができたということ。でも、あれほどの衝撃的な事件がなかったら、戸嶋は本当に三八、九歳で死んでいたかもしれない。だから三島由紀夫の死が戸嶋の人生に与えた復活・再生の力は計り知れないものがある。ただ、戸嶋が三島由紀夫のことを元々深く尊敬していたから会得できたことだと思う。
それは戸嶋の言葉によると、やっぱり、名声の頂点にいる三島由紀夫がああいう事件を起こしたわけなので人間の持つ一つの、拭い去ることのできない一つの運命。その運命に向かってまっしぐらに生きることだけに人間の価値が本当にあるんだということを戸嶋は会得したようです。だから三島由紀夫は、例え名声の頂点にあったとしても、いずれにせよああなる運命だったということなのです。その運命の通りに生きたから、やっぱり三島由紀夫は偉大な文学者であり、偉大な芸術家だということを戸嶋は言っていたし、僕もそう思う。
白鳳とか天平文化が持つ、あの頃の仏像に特に表われているんだけれども。生命の躍動ですね。日本民族の生命が最も躍動していた時代として、白鳳と天平の文化を、仏像を通して感じているということです。それからあと壁画、それともう一つは、鎌倉仏です。鎌倉時代の日本人は彫刻も絵画も最も躍動している。躍動というのは、良い人だったということではない。さっき言ったアポロンとディオニュソスではないけれども、良いものと悪いものを抱き抱えたまま悶え苦しんで、一番生命が溌剌として躍動したということを、戸嶋はその残された芸術を通して感じてるわけです。だからそういうものの研究のために好きだったのだと本人も言っていた。これを一言で言えば生命の躍動です。善悪を超越した、白鳳・天平文化の生命の躍動と、鎌倉芸術の生命の躍動を、戸嶋は日本芸術の中では最も愛していたということなのです。
これは戸嶋流の言葉だと、「新しい国づくり」というものです。白鳳とか天平文化というのは、これから天皇制国家を作って行くという清純な人間の心、新しい息吹、それなのではないかと思う。天皇制の律令国家を創る時の息吹。それが芸術にも出ている。それから、鎌倉時代というのはみんなも知っているように、あの時代もやっぱり生命力が躍動したのだけれども、あれは武士の世の中、あそこから七、八百年続く武士の世の中を創っていった歴史的に面白い時代です。あの鎌倉時代に日本的仏教も完成した。だからあの時代の絵画とか彫刻に、戸嶋というのは日本人最大の躍動を見ていたということです。それは、新しい国造りの清冽な人生観、これを見ていたということです。だから、芸術以前の問題で、やはり芸術というのは、人間のそういう清純な心が創り出すのだということは、戸嶋は最後まで言っていた。
その時代の壁画とか仏像を見ると分かるのだけれど、人間が持っている明るさが表われていると同時に、悲哀とか慟哭、全てが表われている。これはよく見て頂ければ分かると思うのですが、戸嶋は非常にこういった生命の躍動を好んだというか、だからもちろん、戸嶋芸術というのは、戸嶋が自身でそういうものを追求していくためのものでもあるということなのです。だから戸嶋はキャンバスの上には必ず生命の躍動を描こうとしていたということです。あと鎌倉仏もそうで、あれはすごく悲哀が滲み出ていると同時に、すごく可愛いというか。鎌倉仏なんかは特に可愛らしい。これは見た人が皆そう思うでしょう。だから、本当の人間の哀しみというのは、ひとつの人間の生命が持つ可愛さみたいな、そういうものを生み出すものだということ。それは戸嶋も認識していました。
戸嶋は画家だからヨーロッパの油絵の技法を学び、なおかつ戸嶋自身は日本のそのような躍動が好きだったから、それを融合したいというか、それが戸嶋の生涯願っていた芸術観だと言えます。それが戸嶋に言わせると、僕と出会ってから亡くなるまでの最後の三年間、虎ノ門の僕の会社にアトリエを作っていつもそこに通いながら僕の肖像画を描いたり、あとは花梨という果物とか、色んな絵を描いたのだけれども、その時に白鳳・天平文化と西洋の油絵が混合した、自分なりに満足できる混合が行われたということは、戸嶋が最後に語っていたことです。