草舟座右銘

執行草舟が愛する偉人たちの言葉を「草舟座右銘」とし、一つひとつの言葉との出会い、想い、情緒を、書き下ろします。いままで著作のなかで触れた言葉もありますが、改めて各偉人に対して感じることや、その言葉をどのように精神的支柱としてきたか、草舟が定期的にみなさまへご紹介します。ウェブサイトで初めて公開する座右銘も登場します。

  • 阿部次郎『三太郎の日記』より

    痴人でなければ知らぬ黄昏(たそがれ)の天地がある。

  人間は、無限の中から生まれて来た。無限とその暗黒が、何ものかの意志によって我々となったのだ。その意志が、有限である我々を創った。その暗黒の淵源に横たわるものこそが、我々人類の還るべき故郷である。そこを目指して生きなければならない。そこに還るために死ななければならないのだ。それが人類の人類たるわれを創っている。現世に生きたまま、それを体験することを「覚醒」と言い慣わして来た。そして人類は、その覚醒を勇猛の精神の中に見出していたのだ。
  勇猛だけが、人間に人間的な道を拓くことが出来る。人間のもつ価値の出現は、その人物の勇気にかかっている。勇気がなければ、肉体が朽ちるのを待つだけの人生となる。そして勇気を持てば、我々はすべて痴人となりまた狂人となるのだ。歴史は、それを伝える記録でもあるだろう。ドン・キホーテの崇高が分かるか。ファウストの幸福を感ずるか。そして、あの十字架の聖ヨハネの道を歩む勇気があるのかないのか。人生とは、それを問われているだけにしか私には見えない。
  自分だけの道がある。それが人間として生まれた者の歩む本当の道だ。その先に何があるのかは、誰にも分からない。この宇宙でただ独り、自分の運命だけがそれを知っているのだ。その運命を愛する。それが勇気のすべてである。その勇気は、自己の生命をその本源に導いてくれるだろう。しかし、その道筋は誰も知らない。痴人と狂人だけが、そこへ向かって突進することが出来るのだ。その地平に見える黄昏は、多分、神々の黄昏だろう。そして、それは自己の故郷に違いない。

2021年7月12日

掲載箇所(執行草舟著作):『夏日烈烈』p.25
阿部次郎(1883-1959) 哲学者・評論家。東京帝国大学卒業後、夏目漱石に師事。哲学青年の愛読書として名高い『三太郎の日記』を刊行。大学で美学講座を担当しながら、海外文化思潮の紹介にも尽力した。主な著作に『倫理学の根本問題』、『美学』等がある。

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