執行草舟が愛する偉人たちの言葉を「草舟座右銘」とし、一つひとつの言葉との出会い、想い、情緒を、書き下ろします。いままで著作のなかで触れた言葉もありますが、改めて各偉人に対して感じることや、その言葉をどのように精神的支柱としてきたか、草舟が定期的にみなさまへご紹介します。ウェブサイトで初めて公開する座右銘も登場します。
それは一芸に執して、現実の多くを失った人の、
悲劇の果ての顔だからでもあろう。
名人、本因坊秀哉は引退碁に敗けた。それは、一つの歴史の転換でもあっただろう。川端康成は、その対局を観戦し記録したのだ。それが『名人』である。私はこれを稀代の名著だと思っている。私は碁を嗜むことはないが、碁の有する深淵をここに見ているのだ。そして、秀哉名人の生き方とその死に様の中に、自己の人生を投影したと言えよう。名人が死んだとき、川端康成はその死顔を写真に残した。そしてその死顔の香気と哀愁を語り、非現実的な顔の存在を伝えている。それに続いて冒頭の一文となったのだ。
私はこの非現実的な死顔を想像した。そして一芸のために、全生涯を懸けた人間の霊魂を偲んでいた。私はこの名人の人生をよしとした。自分もそれに倣うことを深く確信したのだ。私は武士道だけの人間である。だから一つの道しかしらない。そこにこの名人との共感が生まれた。私は武士道だけで生き、それだけで死ぬつもりだ。その結果を、川端は記録に残してくれた。では、私もそうなろうではないか。私の覚悟を促す書物ともなってくれたのだ。
非現実的な顔は、私の憧れとなった。元々、私は現実社会が大嫌いだったので、これは助かった。その結果は、現実の多くを失うことになるのだろう。しかし、それはそれだけ多くの非現実を得られることを意味している。この本は、私に限りない希望を与えてくれたとも言える。非現実の顔が悲劇の顔なら、その悲劇の顔が私の最終目標となるだろう。悲劇とは、崇高のことだ。崇高は、武士道の根源思想である。悲劇を味わうことが、私の人生を創ってくれるに違いない。
2021年10月09日