草舟座右銘

執行草舟が愛する偉人たちの言葉を「草舟座右銘」とし、一つひとつの言葉との出会い、想い、情緒を、書き下ろします。いままで著作のなかで触れた言葉もありますが、改めて各偉人に対して感じることや、その言葉をどのように精神的支柱としてきたか、草舟が定期的にみなさまへご紹介します。ウェブサイトで初めて公開する座右銘も登場します。

  • 無門慧開和尚『無門関』(第46則)より

    百尺の竿頭(かんとう)に立ちて(すべか)らく()を進め、十方世界に全身を現ずべし。

    《 百尺竿頭須進歩、十方世界現全身 》

 この禅語との出会いは、小学校四年の頃となる。それ以来、六十年に亘って私はこの思想と対面して来た。この中に、武士道の淵源を感じていたからだ。どうにもならぬ悲痛と、どうにもならぬ慟哭を私はここに見ていた。こういう人間に至りたいと願い続けたが、もちろん今だに至ってはいない。毎朝毎夕、願い続けた六十年だった。この言葉をでいって、私は二度死にそうになったことがある。頭蓋骨を割った記憶は、今でも思い出すと身が震える。
 百尺に及ぶ物干し竿の頂上まで行って、そこからさらに一歩を踏み出さねばならないと言う。そして、この世のすべてに向かって素っ裸の自己を曝け出せと言っているのだ。人間には、出来るわけがないと誰もが考える。しかし人間だから、それが出来るのではないか。私はそう思うのだ。人間は、命よりも大切なもののために生きている。だからこそ、人間にはこれが出来る。もし出来ないなら、私は魂を持つ者として自己を恥じる。私はそう思い続けて生きているのだ。
 私はこの思想を体得するために、数千冊の宗教書と武士道の本を読んだ。私には、一つの信念がある。それは人間の生み出したことで、同じ人間の私に出来ないことはないという思想だ。いかに深淵なる禅の思想でも、私は必ずそれを摑み取る。そう思って生きているのだ。摑み取るとは、その思想を自己の人生で実現するということに他ならない。まだ、駄目である。しかし、何かその日が近いように思えるのだ。私は、この思想を体得したとき、『葉隠』の心臓に突入出来るように思っている。

2020年4月27日

掲載箇所(執行草舟著作):『友よ』p.65、『根源へ』p.175、『「憧れ」の思想』p.27、『おゝポポイ!』p.66、『生命の理念 Ⅰ』p.474
無門慧開(1183-1260) 中国、南宋の臨済宗の僧。若い頃に生死の問題に悩み各地を放浪、万寿寺の月林師観に参じ趙州無字の公案で大悟。宮中で雨乞いの祈祷をし、その功で仏眼禅師の号を賜わる。皇帝の勅によって参禅道場・護国仁王寺を創したことでも知られる。著書に『無門関』がある。


南天棒「円相」(部分)

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