執行草舟が愛する偉人たちの言葉を「草舟座右銘」とし、一つひとつの言葉との出会い、想い、情緒を、書き下ろします。いままで著作のなかで触れた言葉もありますが、改めて各偉人に対して感じることや、その言葉をどのように精神的支柱としてきたか、草舟が定期的にみなさまへご紹介します。ウェブサイトで初めて公開する座右銘も登場します。
母がなくては、愛することは出来ない。
母がなくては、死ぬことは出来ない。
ヘルマン・ヘッセは、私の青春だった。『車輪の下』に始まり、『郷愁』『デーミアン』『知と愛』等々は私と青春の苦悩を共に過ごした親友とも言える。魂の苦悩を共にしたのだ。友情に最もふさわしい文学だったように思う。憧れへの苦悩を共にするのがヘッセであり、絶望の苦痛を共にするのがドストエフスキーだった。両者は両輪をなし、私の青春を牽引してくれたのだ。ヘッセには、憧れがある。そして、それは遠く悲しいものを見詰める「何ものか」である。
人間を超えたものを求めていた。宇宙の果てから帰還する、何かを待つような精神とも言えよう。私の青春は、そのようなものだった。ヘッセが願う憧れは、人間を超えた恩寵を見詰める憧れなのだ。それは、「母なる力」とも呼ぶべきものではないだろうか。自然などというものではない。もっと大きな、もっと深い、そしてもっと深刻な生命の淵源である。ヘッセは、それを母なる力と考えていたに違いない。人間は、自分の力で生きているのではないのだ。
自己の存在そのものが、すでに宇宙意志の恩寵とも言えるのだ。その力によって生きる自己の自覚が、ヘッセの文学を生んでいる。それが、冒頭の言葉に集約されているように思う。『知と愛』の最後の言葉だ。人生で最も大切な、愛と死の現実を言っているのだろう。人間存在の核心を創る愛と死すらが、恩寵の力によって生まれている。死ぬほどの愛と永遠の死も、共に与えられたものと言っている。その本当の認識と自覚が問われる。その上に築き上げられた自己こそが、真の自己自身なのである。
2020年8月17日