草舟座右銘

執行草舟が愛する偉人たちの言葉を「草舟座右銘」とし、一つひとつの言葉との出会い、想い、情緒を、書き下ろします。いままで著作のなかで触れた言葉もありますが、改めて各偉人に対して感じることや、その言葉をどのように精神的支柱としてきたか、草舟が定期的にみなさまへご紹介します。ウェブサイトで初めて公開する座右銘も登場します。

  • ヘンリック・イプセン『人形の家』より

    社会と私のどちらが正しいか、確かめてみたい。

  自立して生きようとする女性、ノーラが語る有名な言葉である。女性の自立が全く無かった十九世紀において、ノーラは多くの人々に深い感動を与えた。女の幸福の型が作られていた時代に、ノーラはそれを打ち毀したのだ。その決意を語る言葉だ。私は、この言葉の中に本当の勇気というものを見ていた。幸福になりたい者、成功したい人間、他者の評価を気にかける人たちには決して分からない考え方だろう。自己の運命を愛する人間にしか言えないことだ。自己の生命を抱き締める者にしか出来ないことだ。
  ノーラは、自分の力を過信しているのではない。自分の納得する運命を生きたいだけなのだ。自分の行き着く先に、どのような不幸が待っていようと一切かまわない。自分の運命を堂々と受け入れるつもりに違いない。だからこそ、言えることなのだ。自分が正しいと言っているのではない。社会が間違っていると言っているのでもないのだ。そんなことは、どうでもいい。自分自身の生命を本当に燃焼させたいのである。命を抱き締めたいのだ。
  十九世紀に、このような女性がいること自体が人間の崇高を感ずる。私は中学生のときに、この戯曲を読み舞台を観た。そして、男である自己を深く恥じた。何の制約もない社会を生きる自分に、ノーラの何分の一の勇気も見出せなかった。自己の生き方を恥じることは、新しい武士道の解釈を私の中に生み出した。十九世紀に実在したノルウェーの一女性の生き方が、二十世紀に生きる私の「葉隠精神」を凝結させたのだ。思想の確立は、まさに魂の交流によってしか生まれない。

2020年10月12日

ヘンリック・イプセン(1828-1906) ノルウェーの劇作家。裕福な商家に生まれるが8歳の時に家が破産。苦学しながら作家活動を続け、ドイツ・イギリスを中心に活動、27年間を過ごす。その後、散文によるリアリズム劇を手掛け、近代劇の第一人者となった。日本文学、演劇にも大きな影響を与えた。『人形の家』、『幽霊』等。

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