Detailed year chart 執行草舟年譜

執行草舟の生涯を詳細にわたる年譜としてご紹介しています。運命の躍動する記録を年ごとに追うことができます。時代別のアイコンを押して頂くと、各時代へ飛ぶこともできます。後半生の更新はまたの機会をお楽しみに!

生い立ち・小学校時代

執行家に生まれる(0歳)

1950(昭和25)年、東京都、目白(下落合)の聖母病院で生まれた。執行家は佐賀の鍋島藩において家老職や奉行職を務めた。祖父・執行弘道はパリ万博での日本の代表委員を務めた。天皇家の美術御用掛としても活躍、また日本美術普及の国策会社を経営した。建築家フランク・ロイド・ライトの親友でもあり、日本美術の海外普及に務めた。父・執行一平は旧制の東京商科大学を卒業してから三井物産に入社、出征で陸軍中尉として中国戦線を経て物産に復職、社長である水上達三の片腕として働いた。その英語力を買われGHQの財閥解体にも助力、当時の司令官マッカーサーをして「私が出会った中で最も英語のうまい日本人」と言わしめた。母・千鶴子は岐阜の大垣の大庄屋 早野家の末娘。千鶴子の父・小三樹は上海で日清汽船という海運会社を経営していたため、千鶴子は1930年代の幼少期を上海租界で過ごす。また小三樹は剣術を剣豪・山田次朗吉に指南され相当の使い手であった。

栗きんとん事件(3歳)

1953(昭和28)年、3歳の頃、煮え滾っていた栗きんとんの鍋を母親が子供の手が届かない様に安全を考えて、家の食器棚の上に置いたのを無理に取ろうとして、鍋ごと膝の上にひっくり返し、両足膝下に骨の髄まで達する大やけどを負う。目白にある、やけど治療の家伝薬で有名な川添医院まで二キロの雪の道を、下駄ばきのまま母・千鶴子が連れて行き、江戸時代につくられた秘伝の妙薬を塗ったところ、みるみる回復し始めた。母は薬の張り替えのために子供を背負って雪の中、往復四キロの道のりを毎日通った。

映画三昧の日々(3歳)

3歳の頃から、池袋の多くの映画館や目黒の「ライオン座」によく映画を見に連れていってもらう。当時よく見ていたのは、日活の石原裕次郎、小林旭、東宝の鶴田浩二、三船敏郎の戦争ものや、時代劇などであった。また、ジョン・フォード監督の『駅馬車』、『荒野の決闘』、『わが谷は緑なりき』も子供の頃に観て感銘を受けた。小学校、中学校では一人で映画を見に行くようになるが、ジュリー・アンドリュースの『サウンド・オブ・ミュージック』、『メリー・ポピンズ』がお気に入りであった。

江の島まで流される(4歳)

1954(昭和29)年、4歳の頃、母の実家の茅ヶ崎へ伯父と従兄弟と兄・大輔の三人で、海水浴に行った際、浮き輪に乗って浮かんでいたところ眠ってしまい、十キロ以上離れた江の島の海岸まで流される。警察に保護され夜十一時頃に連絡を受け、その後戻された。家族一同、一日中騒然となり、一緒に行った伯父はその後もしばらく悪夢にうなされた。

指の骨が砕け散る、そして「鉄兜」(5歳)

1955(昭和30)年、5歳の頃、炭屋の大型リヤカーのチェーンが気に入りクルクル回して遊んでいるうちに、右手の人差し指の第一関節まで挟まれてしまい、リヤカーを全て分解してようやく外れたが、巻き込まれて指は潰れてしまった。しかし、しばらくして指の骨が砕けていたのが自然に戻ってしまっていた。またこの頃、自宅に出入りしていた庭師で植木屋の「恩田の金ちゃん」に可愛がってもらっていた。当時は戦後まもなくで物が不自由だったこともあり、金ちゃんの作業姿は軍服に鉄兜、足にはゲートルを巻くという旧帝国陸軍軍人の恰好で毎日働いていた。金ちゃんのお手伝いをすれば、その鉄兜を被らせてくれるということで、ノコギリを運んだり、穴を掘ったりして、ご褒美の鉄兜を楽しんでいた。

肺の石化現象で死にかける(7歳)

1957(昭和32)年、小学校入学前の7歳の頃、突然42度の高熱が出て呼吸困難に陥り、目白の開業医で執行家の掛かりつけ医であった、母里太一郎先生(あの黒田節の槍で有名な母里太兵衛の子孫に当たる)が、タクシーで国立第一病院へ運んだ。膿胸の石化現象を起こしており、第一病院にあった人工呼吸器「鉄の肺」で一命をとりとめた。胸部外科の世界的権威であり、あのマレーの虎と謳われた山下奉文の息子の山下九三夫先生が手術を執刀した。入院中、アイスクリームを食べたいと言ったところ、医師が死ぬからやめるように止めたら、母が自分の子どもに死ぬとは何事かと言って激怒し、地下の食堂でアイスクリームを食べさせ、死なないではないかと詰め寄った。

人体透視機械の実験台とされる(7歳)

また、回復過程の1957(昭和32)年、日本にアメリカから初めて輸入された人体透視機械の実験台とされ、使い方をよく知らなかった日本人医師たちに、体に6時間の長時間照射を三回されたため膨大な放射線を被曝した。医師からは広島型原爆の放射線量の20~40倍とも言われたが、当時なので「すみませんでした」の一言で終わった。死病を克服し国立第一病院から退院し、帰宅してすぐに『葉隠』に出会い手に取る。まだ漢字が読めないので、母に全てルビを振ってもらって読んだ。武士道の精神である「死に狂い」と「忍ぶ恋」の思想に惚れ込み、武士道に生きることを決意した。その後、武士道を哲学化した言葉である「運命への愛」(amor fati アモール・ファーティー)を人生の中心に据える。

立教小学校に入学する(8歳)

1958(昭和33)年、三つ上の兄も通っていたミッションスクールの立教小学校へ一年遅れの8歳で入学。初代校長の有賀千代吉の温情で入学が許される。卒業までにイエス様の教えの中で、自分が好きになった言葉をひとつだけ身に付けなさいと言われる。また立教建学の精神である「プロ・デオ・エト・パトリア」(Pro Deo et Patria「神と国とのために」)という言葉を教わる。その言葉に惚れ込み、今日に至るまで一生涯に亘る信条の一つとなった。一年遅れで入学した時に、他の同級生は入学時から全ての平仮名と片仮名が書けたが、どうしても「ゆ」の字が書けず、二学期まで自分の名前を書く時は「しぎょう うすけ」となってしまった。

画家・林武との出会い、そして喧嘩三昧(8歳)

またこの頃、立教小学校には画家・林武から絵画が寄贈され飾られていたが、ある日、林の知遇を得て、自分の描いた雲の水彩画を見せると大いに褒められた。小学校を通して成績は良かったものの、池袋、目白、雑司ヶ谷付近の不良と喧嘩ばかりで、六年間を通じて親が呼び出された回数は150回だった。これは新記録だった。日本精工の海外技術部長をしていた近所の人から、ベアリング(ドイツ軍戦艦ビスマルクの同型二番鑑の砲塔を回すためにエッセンのクルップ社で製造されたもの)をもらう。以後、高校時代までこれを喧嘩の際の武器として使い続けた。

兼高かおる 世界の旅(8歳)

1959(昭和34)年、小学校二年の時、テレビ番組「兼高かおる 世界の旅」を毎週欠かさず視聴していた。この番組は、当時三井物産の振興課長をしていた父・一平とTBSディレクターの高橋啓氏によって企画立案され父がニューヨーク支店で知っていた兼高かおるを番組に推薦した。当時のTBSのディレクター高橋啓は一平の友人だった。小学校二、三年のとき、スタジオで兼高かおるに頭を撫でられ可愛がられる。

読書三昧の小学生(8歳)

この頃、近所に住んでいた児童文学者の坪田譲治に可愛がられた。当時、坪田は自宅の図書を「びわの実文庫」として、子供たちに開放していたので、本を借りによく出入りしていた。小学校の頃から子供向けの本は読まず、三島由紀夫の『潮騒』、『美しい星』、井上靖の『蒼き狼』、『天平の甍』、芥川龍之介の『杜子春』、『玄鶴山房』、『或阿呆の一生』、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』、トルストイの『戦争と平和』などを読破、また思想週刊誌「朝日ジャーナル」を小五で読み始めた。ただし、先生が薦める本だけは読まないことを信条としており、その代表だった宮沢賢治は当時から現在に至るまで読んでいない。池袋西口にあった芳林堂書店に通いつめ、すべての階のどの棚に何の本があるかすべて覚えていた。

宮崎龍介、柳原白蓮夫妻に可愛がられる(8歳)

雑司ヶ谷の自宅近所に住んでいた、宮崎龍介、柳原白蓮夫妻に可愛がられる。当時、宮崎夫妻の家の近くに「文虎舎」という宮崎龍介の父・宮崎滔天が亡命者を助けるために建てたと言われるアパートがあり、その傍の稲荷明神付近で遊んでいるときに知り合い、お菓子をもらったり、「無点に非ず」(非無点)という言葉や革命思想を教わる。

野口晴哉に治療してもらう(10歳)

小学校入学前の大病と放射線、抗生物質の副作用で、小学校三~四年生頃には何度か死の直前まで衰弱した。天才治療家の野口晴哉に治療を施してもらう。野口の『治療の書』を読み、禅の「啐硺の機」という言葉を教わり、生命の神秘、禅的思想の根本を体得する。

ジャングルジムから転落して脳天を割る(12歳)

1962(昭和37)年、12歳の頃、小学校校庭のジャングルジムのてっぺんから学校の外の道との境の木の枝に飛び移ろうとして転落、コンクリートの道に頭を打ち付けて頭蓋骨をまっぷたつに割る大けがを負う。口の中から脳みそが出てきたが、駆けつけて来た保健室の先生が手で押入れ、頭を縄でぐるぐる巻きに縛り上げ学校の隣にあった外科病院に連れて行った。その二週間後に、野口晴哉に診てもらう。野口は部屋に入った瞬間に「気にする必要はない。医学的な治療もする必要はない。きみの脳は治っている」、そして「〈運命〉によってそのような脳みそになったのだから、これからは(今の脳が)きみの正常な脳みそだ」と言われた。

小学校六年生でヴァイオリンをやめる(13歳)

幼少期の治療の副作用で耳が悪くなり、小学校一年から習っていたヴァイオリンを小学校の最後の年にやめる。その際再び野口晴哉に診てもらい、野口の「きみは体質上、体の中に〈音楽〉があるんだから、楽器は何一つ弾く必要はない」という言葉ですっぱりとやめることができた。

中学校時代・高校時代

罪滅ぼしに新聞配達を始める(14歳)

1964(昭和39)年、小学生の頃に心底から甘い母を騙して、まだ誰も持っていないようなソニーのテープレコーダーやカメラのニコンFを買ってもらったことなどの罪の意識から、せめて本ぐらいは自分で稼いだ金で買おうと決心し、中学校三年間は日本経済新聞の新聞配達をした。そのアルバイト代が月に3万円前後あったのを、全部本に注ぎこんだ。新聞配達を終えて、学校に行くときは立教の制服と革靴、家に帰ったら、高下駄とマントに着替えて、その下に着る学生服はぼろぼろになるまで、わざと汚して、腰手拭、帽子も汚して被っていた。

画家・斎藤正夫の指導する美術部に入る(14歳)

中学・高校と美術部に入り、画家・斎藤正夫に出会い指導を受ける。当時、立教で教鞭を執っていた斎藤は顔がひときわ大きかったので「ガンメン」(顔面)というあだ名で生徒たちの間でも特に恐れられた存在だった。斎藤は執行の絵を評して、「執行の絵には天才性がある」「お前の絵の具の使い方の獰猛さに魅力がある」「つまり執行は何か見どころがある」と大絶賛していた。

読書と喧嘩、音楽に明け暮れる(14~16歳)

中学校三年間は、読書と喧嘩、音楽に明け暮れていた。音楽はワルター指揮のベートーヴェンの第五番「運命」を、小五から大学を卒業するまで毎日聴いていた。ベートーヴェンを聴くときは、父親のおさがりの紺絣を着て、擦り切れた剣道着の袴をはき、わきに木刀を置いてスピーカーと対し正座していた。作家の五味康祐からは、この音楽の聴き方について「日本人として当然、日本人はベートーヴェンに武士道を感じるからな」と言われ、また「ニッポン原人」というあだ名を付けられる。クライスラーのヴァイオリン曲、コルトーのピアノ、ティノ・ロッシの「エクリ・モア」(Écris-Moi)、「荒城の月」(團伊玖磨 指揮、宮原卓也 歌)などがお気に入りだった。

八ヶ岳で三島由紀夫に出会う(16歳)

1966(昭和41)年、中学三年生の16歳の頃、八ヶ岳の山荘で三島由紀夫に出会う。 執行は当時出版されていた三島文学をすべて読んでいたため、自分なりの三島文学論を本人にぶつけた。また、当時雑誌「朝日ジャーナル」で二年間連載されていた高橋和巳の『邪宗門』を読み終わった直後だったため、『邪宗門』そして『悲の器』と三島由紀夫の『美しい星』、『金閣寺』、『鏡子の家』との比較文学論をぶつけた。三島との交流は高校三年まで続いた。一説には、三島の『豊饒の海』の第二部『奔馬』の主人公飯沼勲のモデルは執行ではないかとも言われる。当時、三島と交わした文学論の中には、「言霊学」、百合の霊性、スサノヲ、月読、天照大神の霊性は、日本神話におけるユダヤ・キリスト教的三位一体ではないかといったことに対し、三島がずっとメモを取っており、それが作品中に多く散りばめられているからだ。

三島由紀夫と文学論を交わす(16歳)

また、二年後になるがベートーヴェンの解釈をめぐって苦悩し、三島由紀夫に相談する。三島からは明代の思想家・王陽明の詩を解釈しながら、陽明学の説く「知行合一」に即しながら、知識と自身の行動は不可分であるゆえ、死ぬ気で自分独自の受け止め方をした方が良いとアドバイスをもらっている。高校三年間に亘り、何度も三島と会い文学論をし、三島由紀夫から書を数枚もらっている。

初恋を経験する(17歳)

1967(昭和42)年、高校一年の頃、初恋を経験する。都立北園高校に通う女学生に一目惚れし、以降高校三年間に亘り東武東上線の池袋駅から二つ先の駅までの間に各駅電車の中で見かける相手だったが、一度も声を掛けることができなかった。この初恋の直前の中学三年生の終わりに、東北へ修学旅行に行ったが、平泉の中尊寺と奥州藤原氏の邸・衣川館から見る北上川が素晴らしく、「北上夜曲」に『若きウェルテルの悩み』的なロマンティシズムを感じた矢先の出来事であった。日生劇場の『リア王』公演を見に行った際、恋の悩みを芥川比呂志に楽屋まで相談しに行くと「理想に生きる人間は、恋は成就しない。初恋が成就しないことによって、自分独自の人生を実践できるようになる」と慰められた。ちなみに芥川比呂志は、父・一平が東京商科大学時代に学生演劇をやっていた頃、慶應義塾大学の学生だった加藤道夫や芥川比呂志や堀田善衛と共に「新演劇研究会」に参加していた時から交流があった。

でんぐり返しと恋の文学(17~19歳)

高校三年間、恋の邪念を祓うために、「でんぐり返し」を200~300回も繰り返した日が数多くあったが、片思いで声を掛けられず高校卒業と同時に失恋に終わる。三年間、声を掛けようと話掛けるために書き溜めたメモの厚さは20センチに達した。恋愛を通じて深く腑に落ちた文学は、リルケの『マルテの手記』、『ドゥイノの悲歌』、ミゲール・デ・ウナムーノの『生の悲劇的感情』、『ドン・キホーテとサンチョの生涯』、哲学ではヘーゲルの『精神現象学』であった。高校の卒業式に英国大使のサー・ジョン・ピルチャーが来て、イギリスの歴史家アーノルド・トインビーの『歴史の研究』を紹介する。それに感動し、6000頁の原書を一ヶ月間、昼夜の別なく、飲まず食わずで読み通す。読破したときには体重が10キロ減り、以後3週間にわたって目が潰れた。しかしその思想は、生涯に亘り自己の根幹と成った。終末論として、その「行」によって失恋がふっ切れたことを後に知った。

喧嘩ばかりの高校時代(17~19歳)

高校卒業まで学生服に高下駄の弊衣破帽、父親のおさがりの旧制高校のマントを着ていた。また高校の日常として喧嘩を繰り返し留置所にも数回(約五回)入っている。池袋西口の番長も務めるほどであった。喧嘩相手は国士館高校、朝鮮高校、極真空手、ボクシングのヨネクラジムなどの不良グループだった。

村松剛と知り合いになる(19歳)

1969(昭和44)年、19歳の頃から、文芸評論家の村松剛と知り合いになる。旧約聖書やユダヤ人の歴史に興味を持っていた時期で、中東問題に一番詳しかった村松に本を教えてもらいたくて電話を掛け、四ツ谷のマンションを訪ねた。モシェ・ダヤン将軍の本やユダヤ・パレスチナの歴史の本を借りる。また村松の行っていた日本イスラエル親善協会の活動を手伝うようになる。

立教大学時代

立教大学法学部へ(20歳)

1970(昭和45)年、20歳の頃、立教高校卒業時にアメリカのコロンビア大学に正規入学できる1名に選ばれるが、父・一平の反対もあり、立教大学への入学を決める。ちなみに、中学1年の一学期から高校3年の三学期までの6年間、全学期を通して英語の成績が1番だった。
大学在学中は法学部で刑法の所一彦、法哲学の神島二郎に指導を受け、また団藤重光の『刑法綱要』を熱心に研究する。神島教授により法哲学、政治思想史の専門として、ヘーゲルの『法哲学』、丸山眞男の『日本政治思想史研究』を基礎研究とし、またオットー・フォン・ギールケの『ドイツ団体法論』等を原書で研究した。

皆川達夫の「西洋音楽史」講座、レコードコンサート(20歳)

大学一年では中世・ルネサンス音楽専門の教授・皆川達夫による「西洋音楽史」の講座をとる。執行の家には父の集めた戦前のSPレコードが約1万枚(シュナーベル、クライスラー、ルービンシュタイン、コルトー等)、LPは2千枚(ベートーヴェン、バッハ、モーツァルト、シューベルト、フリッツ・クライスラー、アルフレッド・コルトー、エンリコ・カルーソー等)あったため、定期的に10~20人を集めたレコードコンサートを開くようになる。レコードの貸し借りで交流のあった五味康祐から、コンサート用にとタンノイのスピーカーをもらう。また、レコードコンサートを機に小林秀雄と知り合いになり、ラモー、クープラン等のフランス音楽を中心にレコードの貸し借りをするようになる。「モンテヴェルディとパレストリーナがヨーロッパ音楽を作った」との小林の言葉がこの頃の印象に強く残っている。

レコードコンサートに森有正がくる(20歳)

1970(昭和45)年、20歳の頃、父の大学の後輩であり三井物産の後輩でデュッセルドルフ支店長、パリ支店長を務めた香川氏により、森有正もレコードコンサートに来るようになり、カルヴァンの『キリスト教綱要』についてや音楽談義を交わす。この頃、森有正と2人で諏訪に旅行へ行き、御神渡りを見る。また、目白のカテドラル教会で、バッハの「パッサカリア ハ短調」を、立教大学の礼拝堂で「トッカータとフーガ ニ短調」をパイプオルガンで演奏してもらう。

千葉の富浦海岸で海の家を経営する(20、23歳)

大学一年と三年の夏休みに千葉の富浦海岸で友人と「忠五郎」という海の家を経営した。数十人分の料理をつくり、「飯が美味い」と評判になった。昼間は海で泳いで、海辺で全集を読むことを日課としており、ヴァレリー、ヘーゲル、下村寅太郎、田中美知太郎、波多野精一、九鬼周造の全集を読破した。

身体が衰弱し死にかける(21歳)

1971(昭和46)年、子どもの頃からの薬の副作用で身体が衰弱し、死にかける。ホルモン代謝異常でものが食べられず、24キロ体重が減った。身体の痛みが内臓や目、耳、鼻、口と走り、衰弱死寸前にまで至り、医者から見放された。当時はモーツァルトのレクイエム第七曲の「ラクリモーサ」(涙の日)を繰り返し聴きながら、リルケの詩集(『ドゥイノの悲歌』)、三浦義一の『悲天』、折口信夫の『近代悲傷集』を手元に痛みと闘った。奇跡的に回復し、歩く訓練のリハビリもかねて通っていた自由学園の庭で建築家の黒川紀章と出会い、ライト論やファン・デル・ローエの建築論を交わす。大学四年の頃、教授陣より東大大学院の博士課程までを修了することを勧められ、神島教授から丸山眞夫を紹介される。丸山眞夫とは法哲学以外にもワーグナー論や音楽鑑賞も共に行ない、レコードコンサートにもたびたび来てもらった。

大学卒業後・三崎船舶勤務時代

大正海上火災に入社、すぐに辞職する(24歳)

1974(昭和49)年、24歳の頃、東大の大学院へ進む道もあったが、父との対立によりあきらめた。船と海に関する仕事がしたかったため、大正海上火災に入社。入社してすぐに宇都宮支店に配属となった。しかし、新人社員研修で見せられた給与表を見て、40年先まで給与が決められていることを知り、精神的打撃を受け、その後、会社を辞職する。父からは勘当され、三井石油開発㈱の副社長をしていた伯父からは、精神鑑定を受けるよう勧められる。

三崎船舶工業㈱に就職する(24歳)

すぐに、再就職し、神奈川県三浦市の三崎向ヶ崎にあった従業員350人の中規模造船会社、三﨑船舶工業㈱に勤め始める。旧制の四高(金沢)から東京帝国大学の機械工学科を出て、戦中は軍艦を造る技術将校だった平井顕が社長で戦後に起業した会社だった。造船営業を担当していたが、平井社長から人間にとって一番大事な底力である「骨力の思想」、問題にぶつかった際、重要なことは百のうち二つか三つしかないという「3パーセント 97パーセント理論」を学んだ。この頃は「城山荘」というドックハウスでインド、インドネシア、ベトナム、マレー、パプアニューギニア等からの船員たちと生活していたが、喧嘩が強かったので船員たちから尊敬されていた。また、三﨑船舶で嫌われていた先輩に30トン荷重のクレーンで、上から2~3トンの鉄のかたまりを落とされる。ぎりぎりのところで避けたため、事なきを得た。

三崎の親分・悪漢政に出会う(25歳)

1975(昭和50)年、25歳の頃、三崎一帯の親分だった奥津水産の社長・奥津政五郎(通称・悪漢政)と出会う。日本一マグロを獲る大船団を束ねる日本一の船頭として知られ、80代半ばだったが現役で喧嘩は負け知らずであった。普段から運転手付きのベンツに乗って、ダブルの背広を着て、ネクタイを締め足元はスリッパでどこでも行った。そして赤樫の木刀をいつも携えており、住民からは非常に畏れられていた。この悪漢政に気に入られたため、所蔵船「全功丸」の修繕と点検、また新造船を任された。
また、三崎市内にあった日本庭園付の旧奥津邸に、管理人兼番人として住まわせてもらう。旧奥津邸の庄屋門前には、旧会津藩の砲台跡が広がっていた。

悪漢政に犬歯を折られる(25歳)

1975(昭和50)年、悪漢政とスターレット1000ccで小田原までドライブをした時、執行が「水師営の会見」を歌うと乃木将軍を敬する悪漢政は涙を流した。この頃、朝はよく横須賀に行っては戦艦三笠の前で正座をし、三崎港では船員たちと路上で大喧嘩をしたが、悪漢政に助けてもらう。また、悪漢政の前でヘルマン・ヘッセの「白き雲」を暗誦したところ、2度目にはもう覚えて、すらすらと暗誦したこともあった。悪漢政と木刀で勝負をした際に、下あごに痛烈な一撃を食らい、下の犬歯が折れ顔の腫れは半月ほどひかなかった。この犬歯は、悪漢政が九十代半ばで亡くなった時に、棺に入れて野辺の送りとした。

統一ベトナムと新造船の取引を始める(26歳)

1976(昭和51)年、26歳の頃、ベトナムから新造のエビトロール漁船三隻を受注したが、当時の統一ベトナムと日本との初めての取引となる記念すべき仕事であった。この頃、ベトナムとの取引で東京と三崎を往復していたが、実家の近くに住む作家・坪田譲治と頻繁に出くわし、夜な夜なアンドロメダ星雲や宇宙、生命、神秘について語り合った。
ベトナム大使館と三崎船舶は当時、駐日大使グエン・ザップ閣下の指揮下で協力して新造船の企画を進めていった。ベトナム大使館で作曲家・黛敏郎と会い、チベット独立支援運動について協力したが、村松剛も同じく活動に携わっていた。ダライ・ラマ十四世と出会った。

ニューヨークでグールドに会う(27歳)

1977(昭和52)年、27歳の頃、テキサス州の州立大学院に留学していた友人が、学費に困っているのを助けるために渡米する。またこの時、黛敏郎が親友のレナード・バーンスタインに連絡を取ってくれることによって、ニューヨーク・マンハッタンの録音スタジオでグレン・グールドに会うことができた。グールドとはブゾーニのバッハの編曲に関する音楽論、三島由紀夫の『金閣寺』、『春の雪』の文学論、俳句や短歌について語り合った。
その後、ダラスに向かい、その近郊のアラモ砦を訪ねる。困っていた親友に援助をしたものの、精神的な負い目を負わせることになり、後に友情関係は壊れてしまった。金銭のもつ恐ろしさを悟った。

立教大学の留学センターで女子学生に一目惚れ(27歳)

立教大学の留学センターでキリスト教学科の修士課程の女子学生に一目惚れし、大恋愛に至る。女子学生はカール・バルト、ミルチア・エリアーデ、波多野精一を研究し、キリスト教との比較宗教としてイスラム教を学びにイラクへ留学予定だった。また女子学生の父が日本聖公会の牧師であったため、彼女と結婚し三崎船舶を辞め牧師になることを決めた。そのため、聖公会神学院の入学が二年後に予定されていた。この頃の愛読書は、倉田百三の『愛と認識の出発』、亀井勝一郎の『愛の無常について』、アンリ・アミエルの『アミエルの日記』、ヒルティの『幸福論』であった。しかし、1978(昭和53)年、結婚直前に突如、別れを告げられ大失恋する。

城ヶ島にて自決未遂事件(28歳)

この失恋によって、城ヶ島で自決をしようと決意。曾祖母が佐賀の多久藩より執行家に輿入れに持ってきた龍蔵寺隆信から伝わる初代信国を手に岩礁で切腹しようと、跪座の姿勢をとった瞬間に一陣の風に吹き飛ばされ、岩礁を転がり落ちた。その瞬間に昇ってきた眼前の太陽に突入したような感覚に襲われ意識を失い、切腹は失敗に終わった。
この時の太陽との合一体験から、「負」のエネルギーである宇宙に遍満する生命の神秘と合一した実感を得た。ゲーテの「色彩論」、「形態学」、三木成夫の「発生学」、「自然形態学」などの生命理論を、ボーア、ハイゼンベルグ、シュレジンガーの量子論によって再構築した。

目黒不動に一年間日参し始める(29~30歳)

1979~80(昭和54~55)年、29~30歳の頃、切腹未遂事件から一ヶ月後、目黒不動に一年間日参し始める。その頃の出向先だった耐熱材会社及び三崎船舶東京事務所、実家から必ず行く時間を捻出し、天変地異にも負けず日参を欠かさず行った。日参の最終日である大晦日の満願の日に真っ黒い物体が身体に入り、数時間後に睾丸が腫れ上がり41度の熱が出た。近所の病院で即日睾丸切除と言われたが逃げ出した。その後、かろうじて逓信病院の医師で昭和天皇の侍医を務めたことのある土屋文雄先生に助けられた。原因は「大量に電磁波が身体を貫通したショックによるホルモン異常」と診断され、ほっておけば治ると言われ事なきを得た。

お見合いが決まり、妻・充子と出会う(30歳)

1981年、30歳の頃、目黒不動尊の日参が終わって四日後に、一撃でお見合いが決まる。後に妻となる充子と出会う。充子は学習院大学の国文科で『源氏物語』を研究、国語学者の大野晋の弟子に当たる。
ミクロサイエンス研究所の名称で、個人研究として発酵菌及び食物の関連について実地研究を開始する。この頃、岩波書店が刊行し始めた『内村鑑三全集』全四十巻がすべての研究の根幹となり、「絶対負」という独自の思想を探求することになる。

妻・充子が娘・真由美を出産。ほどなくして亡くなる(33歳)

1983(昭和58)年、妻・充子との結婚生活は二年二ヶ月続いたが、妻はスキルス性の乳癌にかかり、闘病生活を余儀なくされる。癌が発見された時に既に妊娠しており、抗癌治療をせずにお腹の子供を産む事を決意。整体の野口晴哉の一番弟子の臼井栄子や漢方を扱い、独特の食事療法を行う医師の重野哲寛にかかり、何とか1983年5月に出産、娘・真由美が生まれる。その後、ほどなく妻・充子は亡くなる。

バイオテック株式会社設立

バイオテック株式会社設立(33歳)

1984年、33歳の頃、幼い頃からの病や自身の生命を脅かす体験を度々してきたことから、生命の神秘である「絶対負」、肉体の健康向上についてを生涯の研究対象として定め、また、妻・充子の死を機に、菌食・ミネラルによる酵素食品の会社であるバイオテック株式会社(現・株式会社 日本生物科学)を設立する。
バイオテック株式会社は創業時、中央区日本橋本町にあるビルの一室に事務所を構えた。単なる健康のためになる食品ではなく、「自己の生命の燃焼を補完し、自分らしくきちんと生きそして死ぬため」の製品である。この「絶対負」の思想を裏打ちする科学としては、カナダのG.Eドールマン博士の腸内細菌の研究、ルイ・パストゥールの免疫学と細菌学、南方熊楠の粘菌学、サー・アレキサンダー・フレミングの細菌学を土台とした。また製品化にあたって、父の友人でもあった聖マリアンナ医科大学学長の戸栗栄三先生に助けられ、微生物学教室の施設や研究所を使わせてもらう。戸栗栄三は東京ローズとして知られた戸栗郁子の弟である。

研究に没頭する日々(36歳)

1986(昭和61)年には、製造部門として、群馬県藤岡市に日本生物科学株式会社(現・㈱日本菌学研究所)を設立。創業直前に妻を亡くしてから家の管理も掃除もできず、冷暖房も無く本は山積み、その本の重みで畳が抜けた状態で研究に没頭していたため、体が冷え切って冬に胃腸を壊し何キロも痩せ、とてつもない胃痙攣を起こした。痙攣の痛みで10時間に亘り部屋中をころげ回っていたが、その時ですら岩波新書を1冊は必ず読み終えていた。

To be continued… 後半生はまたの更新をお楽しみにしてください。

著作

『生くる』(2010年、講談社)
『友よ』(2010年、講談社)
『根源へ』(2013年、講談社)
『魂の燃焼へ』(共著:清水克衛、2015年、イースト・プレス)
『孤高のリアリズム-戸嶋靖昌の芸術―』(2016年、講談社エディトリアル)
『憂国の芸術』(2016年、講談社エディトリアル)
『耆に学ぶ』(共著:清水克衛、吉田晋彩、西田文郎、寺田一清、2016年、エイチエス)
『生命の理念Ⅰ』(2017年、講談社エディトリアル)
『生命の理念Ⅱ』(2017年、講談社エディトリアル)
『「憧れ」の思想』(2017年、PHP研究所)
『おゝポポイ!―その日々へ還らむ―』(2017年、PHP研究所)
『情熱の哲学―ウナムーノと「生」の闘い―』(監修:執行草舟、佐々木孝著、2018年、  法政大学出版局)
『ベラスケスのキリスト』(監訳:執行草舟、翻訳:安倍三﨑、2018年、法政大学出版局)
『夏日烈烈』(2018年、講談社エディトリアル)
『風の彼方へ ―禅と武士道の生き方―』(共著:横田南嶺、2018年、PHP研究所)
『見よ銀幕に―草舟推奨映画―』(2003年、戸嶋靖昌記念館)

掲載誌

2018.8.27
雑誌『衆知』2018年9・11月号 対談「禅と武士道 第四回――「進化思想」から「怨親平等」の精神へ」
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師との対談記事掲載。
2018.6.27
雑誌『衆知』2018年7・8月号 対談「禅と武士道 第三回――現世で報われない生き方こそ真実の人生」
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師との対談記事掲載。
2018.4.27
雑誌『衆知』2018年5・6月号 対談「禅と武士道 第二回――負のエネルギーによって生命を輝かせる」
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師との対談記事掲載。
2018.2.27
雑誌『衆知』2018年3・4月号 対談「禅と武士道 第一回――死に向かって体当たりで生きる」
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師との対談記事掲載。
2018.1.1
雑誌『れいろう』2018年1月号 対談「未完に挑む――命を燃やして生きる」
パッションジャパン株式会社COO・作家・作法家 三枝理恵子氏との対談記事掲載。
2017.12
日本大学皮膚科同窓会報2017、及び雑誌『医家芸術』<文芸特集号>平成29年12月「目を描いてはならぬ! 孤高の画家―戸嶋靖昌」 同大学前皮膚科主任教授 鈴木啓之氏による、戸嶋靖昌の画業を紹介する記事掲載。
2017.5.15
秋田魁新報 〈都内で「戸嶋靖昌の見たスペイン展」 異国で達した筆致紹介 油絵50点、遠方から愛好者も〉
セルバンテス文化センターで行われた「戸嶋靖昌の見たスペイン展」を紹介する記事掲載。
2017.2.26
秋田魁新報 にちよう遊学空間 美の軌跡「生の本質問い続ける」
戸嶋靖昌の画業を紹介する記事掲載。
2017.1.29
[書評]産経新聞 読書「評・宮崎正弘 強力な磁性を持った思想書 『「憧れ」の思想』」
2016.10.16
[書評]産経新聞 読書「評・新保祐司 美術評論を超えた散文詩 『憂国の芸術』」
2016.9.4
[書評]産経新聞 この本と出会った「評・執行草舟 絶望こそが生の原動力 『生の悲劇的感情』ミゲル・デ・ウナムーノ著」
2016.6.21
日本経済新聞 文化「戸嶋靖昌 魂の画家」
戸嶋靖昌と執行草舟の出会いと戸嶋靖昌記念館設立についての記事掲載。
2016.6.5
[書評]産経新聞 この本と出会った「評・清水克衛 人生に大切な縦糸の読書 『生くる』」
2016.5.8
秋田魁新報 首都圏発 トピックレポート「没後10年 作品、生涯に光」
戸嶋靖昌記念館 分館(麴町)の紹介記事掲載。
2016.5.1
東京鳳鳴会会報「孤高の天才画家 戸嶋靖昌」
戸嶋靖昌の母校 秋田県立大館鳳鳴高校の会報に記事掲載。
2016.4.3
[書評]産経新聞 読書「評・桑原聡 孤高のリアリズム―戸嶋靖昌の芸術―」
2016.2.25
雑誌『芸術新潮』2016年3月号 ARTCAFÉ「戸嶋靖昌の画業に肉薄 まもなく決定版作品集が刊行」
戸嶋靖昌の芸術作品とその生涯を紹介した決定版『孤高のリアリズム』の紹介記事掲載。
2015.11.8
[書評]産経新聞 読書「評・執行草舟 人はいくらでも変わり得る 『人生を変える読書 無期懲役囚の心を揺さぶった42冊』美達大和著」
2015.10.25
雑誌『芸術新潮』2015年11月号 ARTCAFÉ「たった独りで絵画と向き合った 戸嶋靖昌が遺した世界」
スペイン大使館で開催された戸嶋靖昌の個展「孤高のリアリズム-戸嶋靖昌の芸術-」展を紹介する記事掲載。
2015.10.4
[書評]産経新聞 読書「評・執行草舟 生き方が生む思想の魅力 『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著」
2015.9.5
[書評]月刊誌『致知』9月号(致知出版社) 書評・BOOKS『魂の燃焼へ』
2015.8.6
[書評]隔月誌『歴史通』9月号(ワック株式会社) 編集部のこの一冊『魂の燃焼へ』
2015.7.9
地域情報誌 ザ・AZABU vol.32(港区麻布地区総合支所) 「麻布の軌跡 日本の美を世界の美に」
日本美術を世界に広めた執行草舟の祖父、執行弘道に関する記事掲載。
2015.7.1
[書評]月刊誌『正論』2015年8月号『魂の燃焼へ』
2015.6.18
[書評]サンケイスポーツ 情報面 Book書評 『魂の燃焼へ』
2014.8.9~現在
隔月誌『歴史通』(ワック株式会社)2014年9月号~好評連載中 執行草舟「武士道への道」
2014.3.1
雑誌『道経塾』(モラロジー研究所発行)「リーダーの条件」
2013.12.1
[書評]産経新聞 読書「評・桶谷秀昭 いかに生き、死すべきか『根源へ』執行草舟著」
2011.9.1~2013.8.1
月刊誌『正論』2011年10月号~2013年9月号 連載「草舟立言 根源へ」
2011.7.1
月刊誌『正論』8月号「彗星のように現れた思索家かく語りき 還れ、日本人の心に」
2011.3.20
[書評]月刊美術2011年3月号 今月のイチ推し本『生くる』『友よ』執行草舟著
2011.3.12
佐賀新聞 さが文化「佐賀藩士子孫の執行さん 人生の哲学書 出版」
2011.3.6
日本経済新聞 読書あとがきのあと 「心の糧の詩歌 論じる『友よ』執行草舟氏」
2011.2.1、2
夕刊フジ「話題の本『生くる』『友よ』の著者に聞く 執行草舟さん」上・下
2011.1.10
[書評]読売新聞文化面「実業家の強い詩歌論」(『友よ』書評)

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