執行草舟年譜

Detailed year chart 執行草舟年譜

執行草舟の生涯を詳細にわたる年譜としてご紹介しています。運命の躍動する記録を年ごとに追うことができます。時代別のアイコンを押して頂くと、各時代へ飛ぶこともできます。後半生の更新はまたの機会をお楽しみに!

生い立ち・小学校時代

執行家に生まれる(0歳)

1950(昭和25)年、東京都、目白(下落合)の聖母病院で生まれた。執行家は佐賀の鍋島藩において家老職や奉行職を務めた。祖父・執行弘道はパリ万博での日本の代表委員を務めた。天皇家の美術御用掛としても活躍、また日本美術普及の国策会社を経営した。建築家フランク・ロイド・ライトの親友でもあり、日本美術の海外普及に務めた。父・執行一平は旧制の東京商科大学を卒業してから三井物産に入社、出征で陸軍中尉として中国戦線を経て物産に復職、社長である水上達三の片腕として働いた。その英語力を買われGHQの財閥解体にも助力、当時の司令官マッカーサーをして「私が出会った中で最も英語のうまい日本人」と言わしめた。母・千鶴子は岐阜の大垣の大庄屋 早野家の末娘。千鶴子の父・小三樹は上海で日清汽船という海運会社を経営していたため、千鶴子は1930年代の幼少期を上海租界で過ごす。また小三樹は剣術を剣豪・山田次朗吉に指南され相当の使い手であった。

栗きんとん事件(3歳)

1953(昭和28)年、3歳の頃、煮え滾っていた栗きんとんの鍋を母親が子供の手が届かない様に安全を考えて、家の食器棚の上に置いたのを無理に取ろうとして、鍋ごと膝の上にひっくり返し、両足膝下に骨の髄まで達する大やけどを負う。目白にある、やけど治療の家伝薬で有名な川添医院まで二キロの雪の道を、下駄ばきのまま母・千鶴子が連れて行き、江戸時代につくられた秘伝の妙薬を塗ったところ、みるみる回復し始めた。母は薬の張り替えのために子供を背負って雪の中、往復四キロの道のりを毎日通った。

映画三昧の日々(3歳)

3歳の頃から、池袋の多くの映画館や目黒の「ライオン座」によく映画を見に連れていってもらう。当時よく見ていたのは、日活の石原裕次郎、小林旭、東宝の鶴田浩二、三船敏郎の戦争ものや、時代劇などであった。また、ジョン・フォード監督の『駅馬車』、『荒野の決闘』、『わが谷は緑なりき』も子供の頃に観て感銘を受けた。小学校、中学校では一人で映画を見に行くようになるが、ジュリー・アンドリュースの『サウンド・オブ・ミュージック』、『メリー・ポピンズ』がお気に入りであった。

江の島まで流される(4歳)

1954(昭和29)年、4歳の頃、母の実家の茅ヶ崎へ伯父と従兄弟と兄・大輔の三人で、海水浴に行った際、浮き輪に乗って浮かんでいたところ眠ってしまい、十キロ以上離れた江の島の海岸まで流される。警察に保護され夜十一時頃に連絡を受け、その後戻された。家族一同、一日中騒然となり、一緒に行った伯父はその後もしばらく悪夢にうなされた。

指の骨が砕け散る、そして「鉄兜」(5歳)

1955(昭和30)年、5歳の頃、炭屋の大型リヤカーのチェーンが気に入りクルクル回して遊んでいるうちに、右手の人差し指の第一関節まで挟まれてしまい、リヤカーを全て分解してようやく外れたが、巻き込まれて指は潰れてしまった。しかし、しばらくして指の骨が砕けていたのが自然に戻ってしまっていた。またこの頃、自宅に出入りしていた庭師で植木屋の「恩田の金ちゃん」に可愛がってもらっていた。当時は戦後まもなくで物が不自由だったこともあり、金ちゃんの作業姿は軍服に鉄兜、足にはゲートルを巻くという旧帝国陸軍軍人の恰好で毎日働いていた。金ちゃんのお手伝いをすれば、その鉄兜を被らせてくれるということで、ノコギリを運んだり、穴を掘ったりして、ご褒美の鉄兜を楽しんでいた。

肺の石化現象で死にかける(7歳)

1957(昭和32)年、小学校入学前の7歳の頃、突然42度の高熱が出て呼吸困難に陥り、目白の開業医で執行家の掛かりつけ医であった、母里太一郎先生(あの黒田節の槍で有名な母里太兵衛の子孫に当たる)が、タクシーで国立第一病院へ運んだ。膿胸の石化現象を起こしており、第一病院にあった人工呼吸器「鉄の肺」で一命をとりとめた。胸部外科の世界的権威であり、あのマレーの虎と謳われた山下奉文の息子の山下九三夫先生が手術を執刀した。入院中、アイスクリームを食べたいと言ったところ、医師が死ぬからやめるように止めたら、母が自分の子どもに死ぬとは何事かと言って激怒し、地下の食堂でアイスクリームを食べさせ、死なないではないかと詰め寄った。

人体透視機械の実験台とされる(7歳)

また、回復過程の1957(昭和32)年、日本にアメリカから初めて輸入された人体透視機械の実験台とされ、使い方をよく知らなかった日本人医師たちに、体に6時間の長時間照射を三回されたため膨大な放射線を被曝した。医師からは広島型原爆の放射線量の20~40倍とも言われたが、当時なので「すみませんでした」の一言で終わった。死病を克服し国立第一病院から退院し、帰宅してすぐに『葉隠』に出会い手に取る。まだ漢字が読めないので、母に全てルビを振ってもらって読んだ。武士道の精神である「死に狂い」と「忍ぶ恋」の思想に惚れ込み、武士道に生きることを決意した。(草舟思想を導き出した根源公理、葉隠十戒はこちら)その後、武士道を哲学化した言葉である「運命への愛」(amor fati アモール・ファーティー)を人生の中心に据える。

立教小学校に入学する(8歳)

1958(昭和33)年、三つ上の兄も通っていたミッションスクールの立教小学校へ一年遅れの8歳で入学。初代校長の有賀千代吉の温情で入学が許される。卒業までにイエス様の教えの中で、自分が好きになった言葉をひとつだけ身に付けなさいと言われる。また立教建学の精神である「プロ・デオ・エト・パトリア」(Pro Deo et Patria「神と国とのために」)という言葉を教わる。その言葉に惚れ込み、今日に至るまで一生涯に亘る信条の一つとなった。一年遅れで入学した時に、他の同級生は入学時から全ての平仮名と片仮名が書けたが、どうしても「ゆ」の字が書けず、二学期まで自分の名前を書く時は「しぎょう うすけ」となってしまった。

画家・林武との出会い、そして喧嘩三昧(8歳)

またこの頃、立教小学校には画家・林武から絵画が寄贈され飾られていたが、ある日、林の知遇を得て、自分の描いた雲の水彩画を見せると大いに褒められた。小学校を通して成績は良かったものの、池袋、目白、雑司ヶ谷付近の不良と喧嘩ばかりで、六年間を通じて親が呼び出された回数は150回だった。これは新記録だった。日本精工の海外技術部長をしていた近所の人から、ベアリング(ドイツ軍戦艦ビスマルクの同型二番鑑の砲塔を回すためにエッセンのクルップ社で製造されたもの)をもらう。以後、高校時代までこれを喧嘩の際の武器として使い続けた。

兼高かおる 世界の旅(8歳)

1959(昭和34)年、小学校二年の時、テレビ番組「兼高かおる 世界の旅」を毎週欠かさず視聴していた。この番組は、当時三井物産の振興課長をしていた父・一平とTBSディレクターの高橋啓氏によって企画立案され父がニューヨーク支店で知っていた兼高かおるを番組に推薦した。当時のTBSのディレクター高橋啓は一平の友人だった。小学校二、三年のとき、スタジオで兼高かおるに頭を撫でられ可愛がられる。

読書三昧の小学生(8歳)

この頃、近所に住んでいた児童文学者の坪田譲治に可愛がられた。当時、坪田は自宅の図書を「びわの実文庫」として、子供たちに開放していたので、本を借りによく出入りしていた。小学校の頃から子供向けの本は読まず、三島由紀夫の『潮騒』、『美しい星』、井上靖の『蒼き狼』、『天平の甍』、芥川龍之介の『杜子春』、『玄鶴山房』、『或阿呆の一生』、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』、トルストイの『戦争と平和』などを読破、また思想週刊誌「朝日ジャーナル」を小五で読み始めた。ただし、先生が薦める本だけは読まないことを信条としており、その代表だった宮沢賢治は当時から現在に至るまで読んでいない。池袋西口にあった芳林堂書店に通いつめ、すべての階のどの棚に何の本があるかすべて覚えていた。

宮崎龍介、柳原白蓮夫妻に可愛がられる(8歳)

雑司ヶ谷の自宅近所に住んでいた、宮崎龍介、柳原白蓮夫妻に可愛がられる。当時、宮崎夫妻の家の近くに「文虎舎」という宮崎龍介の父・宮崎滔天が亡命者を助けるために建てたと言われるアパートがあり、その傍の稲荷明神付近で遊んでいるときに知り合い、お菓子をもらったり、「無点に非ず」(非無点)という言葉や革命思想を教わる。

野口晴哉に治療してもらう(10歳)

小学校入学前の大病と放射線、抗生物質の副作用で、小学校三~四年生頃には何度か死の直前まで衰弱した。天才治療家の野口晴哉に治療を施してもらう。野口の『治療の書』を読み、禅の「啐硺の機」という言葉を教わり、生命の神秘、禅的思想の根本を体得する。

ジャングルジムから転落して脳天を割る(12歳)

1962(昭和37)年、12歳の頃、小学校校庭のジャングルジムのてっぺんから学校の外の道との境の木の枝に飛び移ろうとして転落、コンクリートの道に頭を打ち付けて頭蓋骨をまっぷたつに割る大けがを負う。口の中から脳みそが出てきたが、駆けつけて来た保健室の先生が手で押入れ、頭を縄でぐるぐる巻きに縛り上げ学校の隣にあった外科病院に連れて行った。その二週間後に、野口晴哉に診てもらう。野口は部屋に入った瞬間に「気にする必要はない。医学的な治療もする必要はない。きみの脳は治っている」、そして「〈運命〉によってそのような脳みそになったのだから、これからは(今の脳が)きみの正常な脳みそだ」と言われた。

小学校六年生でヴァイオリンをやめる(13歳)

幼少期の治療の副作用で耳が悪くなり、小学校一年から習っていたヴァイオリンを小学校の最後の年にやめる。その際再び野口晴哉に診てもらい、野口の「きみは体質上、体の中に〈音楽〉があるんだから、楽器は何一つ弾く必要はない」という言葉ですっぱりとやめることができた。

中学校時代・高校時代

罪滅ぼしに新聞配達を始める(14歳)

1964(昭和39)年、小学生の頃に心底から甘い母を騙して、まだ誰も持っていないようなソニーのテープレコーダーやカメラのニコンFを買ってもらったことなどの罪の意識から、せめて本ぐらいは自分で稼いだ金で買おうと決心し、中学校三年間は日本経済新聞の新聞配達をした。そのアルバイト代が月に3万円前後あったのを、全部本に注ぎこんだ。新聞配達を終えて、学校に行くときは立教の制服と革靴、家に帰ったら、高下駄とマントに着替えて、その下に着る学生服はぼろぼろになるまで、わざと汚して、腰手拭、帽子も汚して被っていた。

画家・斎藤正夫の指導する美術部に入る(14歳)

中学・高校と美術部に入り、画家・斎藤正夫に出会い指導を受ける。当時、立教で教鞭を執っていた斎藤は顔がひときわ大きかったので「ガンメン」(顔面)というあだ名で生徒たちの間でも特に恐れられた存在だった。斎藤は執行の絵を評して、「執行の絵には天才性がある」「お前の絵の具の使い方の獰猛さに魅力がある」「つまり執行は何か見どころがある」と大絶賛していた。

読書と喧嘩、音楽に明け暮れる(14~16歳)

中学校三年間は、読書と喧嘩、音楽に明け暮れていた。音楽はワルター指揮のベートーヴェンの第五番「運命」を、小五から大学を卒業するまで毎日聴いていた。ベートーヴェンを聴くときは、父親のおさがりの紺絣を着て、擦り切れた剣道着の袴をはき、わきに木刀を置いてスピーカーと対し正座していた。作家の五味康祐からは、この音楽の聴き方について「日本人として当然、日本人はベートーヴェンに武士道を感じるからな」と言われ、また「ニッポン原人」というあだ名を付けられる。クライスラーのヴァイオリン曲、コルトーのピアノ、ティノ・ロッシの「エクリ・モア」(Écris-Moi)、「荒城の月」(團伊玖磨 指揮、宮原卓也 歌)などがお気に入りだった。

八ヶ岳で三島由紀夫に出会う(16歳)

1966(昭和41)年、中学三年生の16歳の頃、八ヶ岳の山荘で三島由紀夫に出会う。 執行は当時出版されていた三島文学をすべて読んでいたため、自分なりの三島文学論を本人にぶつけた。また、当時雑誌「朝日ジャーナル」で二年間連載されていた高橋和巳の『邪宗門』を読み終わった直後だったため、『邪宗門』そして『悲の器』と三島由紀夫の『美しい星』、『金閣寺』、『鏡子の家』との比較文学論をぶつけた。三島との交流は高校三年まで続いた。一説には、三島の『豊饒の海』の第二部『奔馬』の主人公飯沼勲のモデルは執行ではないかとも言われる。当時、三島と交わした文学論の中には、「言霊学」、百合の霊性、スサノヲ、月読、天照大神の霊性は、日本神話におけるユダヤ・キリスト教的三位一体ではないかといったことに対し、三島がずっとメモを取っており、それが作品中に多く散りばめられているからだ。

三島由紀夫と文学論を交わす(16歳)

また、二年後になるがベートーヴェンの解釈をめぐって苦悩し、三島由紀夫に相談する。三島からは明代の思想家・王陽明の詩を解釈しながら、陽明学の説く「知行合一」に即しながら、知識と自身の行動は不可分であるゆえ、死ぬ気で自分独自の受け止め方をした方が良いとアドバイスをもらっている。高校三年間に亘り、何度も三島と会い文学論をし、三島由紀夫から書を数枚もらっている。

初恋を経験する(17歳)

1967(昭和42)年、高校一年の頃、初恋を経験する。都立北園高校に通う女学生に一目惚れし、以降高校三年間に亘り東武東上線の池袋駅から二つ先の駅までの間に各駅電車の中で見かける相手だったが、一度も声を掛けることができなかった。この初恋の直前の中学三年生の終わりに、東北へ修学旅行に行ったが、平泉の中尊寺と奥州藤原氏の邸・衣川館から見る北上川が素晴らしく、「北上夜曲」に『若きウェルテルの悩み』的なロマンティシズムを感じた矢先の出来事であった。日生劇場の『リア王』公演を見に行った際、恋の悩みを芥川比呂志に楽屋まで相談しに行くと「理想に生きる人間は、恋は成就しない。初恋が成就しないことによって、自分独自の人生を実践できるようになる」と慰められた。ちなみに芥川比呂志は、父・一平が東京商科大学時代に学生演劇をやっていた頃、慶應義塾大学の学生だった加藤道夫や芥川比呂志や堀田善衛と共に「新演劇研究会」に参加していた時から交流があった。

でんぐり返しと恋の文学(17~19歳)

高校三年間、恋の邪念を祓うために、「でんぐり返し」を200~300回も繰り返した日が数多くあったが、片思いで声を掛けられず高校卒業と同時に失恋に終わる。三年間、声を掛けようと話掛けるために書き溜めたメモの厚さは20センチに達した。恋愛を通じて深く腑に落ちた文学は、リルケの『マルテの手記』、『ドゥイノの悲歌』、ミゲール・デ・ウナムーノの『生の悲劇的感情』、『ドン・キホーテとサンチョの生涯』、哲学ではヘーゲルの『精神現象学』であった。高校の卒業式に英国大使のサー・ジョン・ピルチャーが来て、イギリスの歴史家アーノルド・トインビーの『歴史の研究』を紹介する。それに感動し、6000頁の原書を一ヶ月間、昼夜の別なく、飲まず食わずで読み通す。読破したときには体重が10キロ減り、以後3週間にわたって目が潰れた。しかしその思想は、生涯に亘り自己の根幹と成った。終末論として、その「行」によって失恋がふっ切れたことを後に知った。

喧嘩ばかりの高校時代(17~19歳)

高校卒業まで学生服に高下駄の弊衣破帽、父親のおさがりの旧制高校のマントを着ていた。また高校の日常として喧嘩を繰り返し留置所にも数回(約五回)入っている。池袋西口の番長も務めるほどであった。喧嘩相手は国士館高校、朝鮮高校、極真空手、ボクシングのヨネクラジムなどの不良グループだった。

村松剛と知り合いになる(19歳)

1969(昭和44)年、19歳の頃から、文芸評論家の村松剛と知り合いになる。旧約聖書やユダヤ人の歴史に興味を持っていた時期で、中東問題に一番詳しかった村松に本を教えてもらいたくて電話を掛け、四ツ谷のマンションを訪ねた。モシェ・ダヤン将軍の本やユダヤ・パレスチナの歴史の本を借りる。また村松の行っていた日本イスラエル親善協会の活動を手伝うようになる。

立教大学時代

立教大学法学部へ(20歳)

1970(昭和45)年、20歳の頃、立教高校卒業時にアメリカのコロンビア大学に正規入学できる1名に選ばれるが、父・一平の反対もあり、立教大学への入学を決める。ちなみに、中学1年の一学期から高校3年の三学期までの6年間、全学期を通して英語の成績が1番だった。
大学在学中は法学部で刑法の所一彦、法哲学の神島二郎に指導を受け、また団藤重光の『刑法綱要』を熱心に研究する。神島教授により法哲学、政治思想史の専門として、ヘーゲルの『法哲学』、丸山眞男の『日本政治思想史研究』を基礎研究とし、またオットー・フォン・ギールケの『ドイツ団体法論』等を原書で研究した。

皆川達夫の「西洋音楽史」講座、レコードコンサート(20歳)

大学一年では中世・ルネサンス音楽専門の教授・皆川達夫による「西洋音楽史」の講座をとる。執行の家には父の集めた戦前のSPレコードが約1万枚(シュナーベル、クライスラー、ルービンシュタイン、コルトー等)、LPは2千枚(ベートーヴェン、バッハ、モーツァルト、シューベルト、フリッツ・クライスラー、アルフレッド・コルトー、エンリコ・カルーソー等)あったため、定期的に10~20人を集めたレコードコンサートを開くようになる。レコードの貸し借りで交流のあった五味康祐から、コンサート用にとタンノイのスピーカーをもらう。また、レコードコンサートを機に小林秀雄と知り合いになり、ラモー、クープラン等のフランス音楽を中心にレコードの貸し借りをするようになる。「モンテヴェルディとパレストリーナがヨーロッパ音楽を作った」との小林の言葉がこの頃の印象に強く残っている。

レコードコンサートに森有正がくる(20歳)

1970(昭和45)年、20歳の頃、父の大学の後輩であり三井物産の後輩でデュッセルドルフ支店長、パリ支店長を務めた香川氏により、森有正もレコードコンサートに来るようになり、カルヴァンの『キリスト教綱要』についてや音楽談義を交わす。この頃、森有正と2人で諏訪に旅行へ行き、御神渡りを見る。また、目白のカテドラル教会で、バッハの「パッサカリア ハ短調」を、立教大学の礼拝堂で「トッカータとフーガ ニ短調」をパイプオルガンで演奏してもらう。

千葉の富浦海岸で海の家を経営する(20、23歳)

大学一年と三年の夏休みに千葉の富浦海岸で友人と「忠五郎」という海の家を経営した。数十人分の料理をつくり、「飯が美味い」と評判になった。昼間は海で泳いで、海辺で全集を読むことを日課としており、ヴァレリー、ヘーゲル、下村寅太郎、田中美知太郎、波多野精一、九鬼周造の全集を読破した。

身体が衰弱し死にかける(21歳)

1971(昭和46)年、子どもの頃からの薬の副作用で身体が衰弱し、死にかける。ホルモン代謝異常でものが食べられず、24キロ体重が減った。身体の痛みが内臓や目、耳、鼻、口と走り、衰弱死寸前にまで至り、医者から見放された。当時はモーツァルトのレクイエム第七曲の「ラクリモーサ」(涙の日)を繰り返し聴きながら、リルケの詩集(『ドゥイノの悲歌』)、三浦義一の『悲天』、折口信夫の『近代悲傷集』を手元に痛みと闘った。奇跡的に回復し、歩く訓練のリハビリもかねて通っていた自由学園の庭で建築家の黒川紀章と出会い、ライト論やファン・デル・ローエの建築論を交わす。大学四年の頃、教授陣より東大大学院の博士課程までを修了することを勧められ、神島教授から丸山眞夫を紹介される。丸山眞夫とは法哲学以外にもワーグナー論や音楽鑑賞も共に行ない、レコードコンサートにもたびたび来てもらった。

大学卒業後・三崎船舶勤務時代

大正海上火災に入社、すぐに辞職する(24歳)

1974(昭和49)年、24歳の頃、東大の大学院へ進む道もあったが、父との対立によりあきらめた。船と海に関する仕事がしたかったため、大正海上火災に入社。入社してすぐに宇都宮支店に配属となった。しかし、新人社員研修で見せられた給与表を見て、40年先まで給与が決められていることを知り、精神的打撃を受け、その後、会社を辞職する。父からは勘当され、三井石油開発㈱の副社長をしていた伯父からは、精神鑑定を受けるよう勧められる。

三崎船舶工業㈱に就職する(24歳)

すぐに、再就職し、神奈川県三浦市の三崎向ヶ崎にあった従業員350人の中規模造船会社、三﨑船舶工業㈱に勤め始める。旧制の四高(金沢)から東京帝国大学の機械工学科を出て、戦中は軍艦を造る技術将校だった平井顕が社長で戦後に起業した会社だった。造船営業を担当していたが、平井社長から人間にとって一番大事な底力である「骨力の思想」、問題にぶつかった際、重要なことは百のうち二つか三つしかないという「3パーセント 97パーセント理論」を学んだ。この頃は「城山荘」というドックハウスでインド、インドネシア、ベトナム、マレー、パプアニューギニア等からの船員たちと生活していたが、喧嘩が強かったので船員たちから尊敬されていた。また、三﨑船舶で嫌われていた先輩に30トン荷重のクレーンで、上から2~3トンの鉄のかたまりを落とされる。ぎりぎりのところで避けたため、事なきを得た。

三崎の親分・悪漢政に出会う(25歳)

1975(昭和50)年、25歳の頃、三崎一帯の親分だった奥津水産の社長・奥津政五郎(通称・悪漢政)と出会う。日本一マグロを獲る大船団を束ねる日本一の船頭として知られ、80代半ばだったが現役で喧嘩は負け知らずであった。普段から運転手付きのベンツに乗って、ダブルの背広を着て、ネクタイを締め足元はスリッパでどこでも行った。そして赤樫の木刀をいつも携えており、住民からは非常に畏れられていた。この悪漢政に気に入られたため、所蔵船「全功丸」の修繕と点検、また新造船を任された。
また、三崎市内にあった日本庭園付の旧奥津邸に、管理人兼番人として住まわせてもらう。旧奥津邸の庄屋門前には、旧会津藩の砲台跡が広がっていた。

悪漢政に犬歯を折られる(25歳)

1975(昭和50)年、悪漢政とスターレット1000ccで小田原までドライブをした時、執行が「水師営の会見」を歌うと乃木将軍を敬する悪漢政は涙を流した。この頃、朝はよく横須賀に行っては戦艦三笠の前で正座をし、三崎港では船員たちと路上で大喧嘩をしたが、悪漢政に助けてもらう。また、悪漢政の前でヘルマン・ヘッセの「白き雲」を暗誦したところ、2度目にはもう覚えて、すらすらと暗誦したこともあった。悪漢政と木刀で勝負をした際に、下あごに痛烈な一撃を食らい、下の犬歯が折れ顔の腫れは半月ほどひかなかった。この犬歯は、悪漢政が九十代半ばで亡くなった時に、棺に入れて野辺の送りとした。

統一ベトナムと新造船の取引を始める(26歳)

1976(昭和51)年、26歳の頃、ベトナムから新造のエビトロール漁船三隻を受注したが、当時の統一ベトナムと日本との初めての取引となる記念すべき仕事であった。この頃、ベトナムとの取引で東京と三崎を往復していたが、実家の近くに住む作家・坪田譲治と頻繁に出くわし、夜な夜なアンドロメダ星雲や宇宙、生命、神秘について語り合った。
ベトナム大使館と三崎船舶は当時、駐日大使グエン・ザップ閣下の指揮下で協力して新造船の企画を進めていった。ベトナム大使館で作曲家・黛敏郎と会い、チベット独立支援運動について協力したが、村松剛も同じく活動に携わっていた。ダライ・ラマ十四世と出会った。

ニューヨークでグールドに会う(27歳)

1977(昭和52)年、27歳の頃、テキサス州の州立大学院に留学していた友人が、学費に困っているのを助けるために渡米する。またこの時、黛敏郎が親友のレナード・バーンスタインに連絡を取ってくれることによって、ニューヨーク・マンハッタンの録音スタジオでグレン・グールドに会うことができた。グールドとはブゾーニのバッハの編曲に関する音楽論、三島由紀夫の『金閣寺』、『春の雪』の文学論、俳句や短歌について語り合った。
その後、ダラスに向かい、その近郊のアラモ砦を訪ねる。困っていた親友に援助をしたものの、精神的な負い目を負わせることになり、後に友情関係は壊れてしまった。金銭のもつ恐ろしさを悟った。

立教大学の留学センターで女子学生に一目惚れ(27歳)

立教大学の留学センターでキリスト教学科の修士課程の女子学生に一目惚れし、大恋愛に至る。女子学生はカール・バルト、ミルチア・エリアーデ、波多野精一を研究し、キリスト教との比較宗教としてイスラム教を学びにイラクへ留学予定だった。また女子学生の父が日本聖公会の牧師であったため、彼女と結婚し三崎船舶を辞め牧師になることを決めた。そのため、聖公会神学院の入学が二年後に予定されていた。この頃の愛読書は、倉田百三の『愛と認識の出発』、亀井勝一郎の『愛の無常について』、アンリ・アミエルの『アミエルの日記』、ヒルティの『幸福論』であった。しかし、1978(昭和53)年、結婚直前に突如、別れを告げられ大失恋する。

城ヶ島にて自決未遂事件(28歳)

この失恋によって、城ヶ島で自決をしようと決意。曾祖母が佐賀の多久藩より執行家に輿入れに持ってきた龍蔵寺隆信から伝わる初代信国を手に岩礁で切腹しようと、跪座の姿勢をとった瞬間に一陣の風に吹き飛ばされ、岩礁を転がり落ちた。その瞬間に昇ってきた眼前の太陽に突入したような感覚に襲われ意識を失い、切腹は失敗に終わった。
この時の太陽との合一体験から、「負」のエネルギーである宇宙に遍満する生命の神秘と合一した実感を得た。ゲーテの「色彩論」、「形態学」、三木成夫の「発生学」、「自然形態学」などの生命理論を、ボーア、ハイゼンベルグ、シュレジンガーの量子論によって再構築した。

目黒不動に一年間日参し始める(29~30歳)

1979~80(昭和54~55)年、29~30歳の頃、切腹未遂事件から一ヶ月後、目黒不動に一年間日参し始める。その頃の出向先だった耐熱材会社及び三崎船舶東京事務所、実家から必ず行く時間を捻出し、天変地異にも負けず日参を欠かさず行った。日参の最終日である大晦日の満願の日に真っ黒い物体が身体に入り、数時間後に睾丸が腫れ上がり41度の熱が出た。近所の病院で即日睾丸切除と言われたが逃げ出した。その後、かろうじて逓信病院の医師で昭和天皇の侍医を務めたことのある土屋文雄先生に助けられた。原因は「大量に電磁波が身体を貫通したショックによるホルモン異常」と診断され、ほっておけば治ると言われ事なきを得た。

お見合いが決まり、妻・充子と出会う(30歳)

1981年、30歳の頃、目黒不動尊の日参が終わって四日後に、一撃でお見合いが決まる。後に妻となる充子と出会う。充子は学習院大学の国文科で『源氏物語』を研究、国語学者の大野晋の弟子に当たる。
ミクロサイエンス研究所の名称で、個人研究として発酵菌及び食物の関連について実地研究を開始する。この頃、岩波書店が刊行し始めた『内村鑑三全集』全四十巻がすべての研究の根幹となり、「絶対負」という独自の思想を探求することになる。

妻・充子が娘・真由美を出産。ほどなくして亡くなる(33歳)

1983(昭和58)年、妻・充子との結婚生活は二年二ヶ月続いたが、妻はスキルス性の乳癌にかかり、闘病生活を余儀なくされる。癌が発見された時に既に妊娠しており、抗癌治療をせずにお腹の子供を産む事を決意。整体の野口晴哉の一番弟子の臼井栄子や漢方を扱い、独特の食事療法を行う医師の重野哲寛にかかり、何とか1983年5月に出産、娘・真由美が生まれる。その後、ほどなく妻・充子は亡くなる。

バイオテック株式会社草創期

バイオテック株式会社設立(33歳)

1984年、33歳の頃、幼い頃からの病や自身の生命を脅かす体験を度々してきたことから、生命の神秘である「絶対負」、肉体の健康向上についてを生涯の研究対象として定め、また、妻・充子の死を機に、菌食・ミネラルによる酵素食品の会社であるバイオテック株式会社(現・株式会社 日本生物科学)を設立する。
バイオテック株式会社は創業時、中央区日本橋本町にあるビルの一室に事務所を構えた。単なる健康のためになる食品ではなく、「自己の生命の燃焼を補完し、自分らしくきちんと生きそして死ぬため」の製品である。この「絶対負」の思想を裏打ちする科学としては、カナダのC.Eドールマン博士の腸内細菌の研究、ルイ・パストゥールの免疫学と細菌学、南方熊楠の粘菌学、サー・アレキサンダー・フレミングの細菌学を土台とした。また製品化にあたって、父の友人でもあった聖マリアンナ医科大学学長の戸栗栄三先生に助けられ、微生物学教室の施設や研究所を使わせてもらう。戸栗栄三は東京ローズとして知られた戸栗郁子の弟である。

研究に没頭する日々(36歳)

1986(昭和61)年には、製造部門として、群馬県藤岡市に日本生物科学株式会社(現・㈱日本菌学研究所)を設立。創業直前に妻を亡くしてから家の管理も掃除もできず、冷暖房も無く本は山積み、その本の重みで畳が抜けた状態で研究に没頭していたため、体が冷え切って冬に胃腸を壊し何キロも痩せ、とてつもない胃痙攣を起こした。痙攣の痛みで10時間に亘り部屋中をころげ回っていたが、その時ですら岩波新書を1冊は必ず読み終えていた。

群馬県藤岡市に最初の工場を設ける(36歳)

バイオテック株式会社は、1984年の創業以来、右肩上がりの急成長をとげ、日本橋の永谷ビルには日々来客が絶えなかった。自身の身体の治療研究から出発し、自宅のミクロサイエンス研究所や日本橋のオフィスビル内でも菌の研究やカキ殻の焼成研究等を行なっていたが、この年に群馬県藤岡市に最初の工場を設け、菌食・ミネラル食品の本格生産の準備に乗り出した。

最初の工場が手狭になり、同じ群馬県藤岡市の新工場に移転(37歳)

1987(昭和62年)、生産量拡大に伴い、平屋建ての工場で、菌食・ミネラル食品を安定供給できる仕組みを創り上げていった。培地・菌接種・培養・抽出の工程を行なうことが可能になった。商品のパッケージの金・銀は童謡「月の沙漠」のロマンを取り入れてデザイン。金と銀の鞍を並べ、月の沙漠を行く王子様、お姫様の姿を歌ったこの歌は、最も愛する歌の一つで、その憧れに向うロマンを、事業の進むべき道に重ね合わせ指針とした。

「おしゃれ事件」、「オムレツ事件」が起こる(37歳)

この頃、自身の服装のスタイルをガラッと一変させる出来事があり、「おしゃれ事件」として語り継がれている。若い頃から着る物や持ち物、自分の見た目や顔にはまったく興味がなく、清潔できちんとした身なりであればいいと考え、白のワイシャツ複数枚をクリーニングしながら長年使用していた。ところが長年の着用で色が変わっていたようで、ある日社員から以前からグレーのワイシャツだと思っていましたと言われ、それまでの考えを一変させる。社長として相手の方に失礼のない身なりとなるようスーツやネクタイ、トレードマークとなる蝶ネクタイなどを全て新調。英国紳士風のスタイルに一新し、なるべく年長に見られるよう、髪はオールバックにした。
食べ物に関しても、オムレツが美味しい店でオムレツを食べようとしたところ、一度目は店が閉まっており、二度目は目の前の客で売切れとなり、三度目は店にテレビの取材が入っていて食べられなかった。頭にきて仕方なく入ったそば屋で食べたそばが、ゴムのように硬く不味いそばだった。これらのことから、自分の好みややりたいことをする生き方はすでに出来なくなり、運命に沿った生き方しか出来ないのだということに気付かされる。

バイオテック株式会社を港区虎ノ門に移転する(38歳)

1988(昭和63)年、創業以来、順調に事業が伸び、日本橋の永谷ビルから港区虎ノ門のあまかすビルへと本社を移転。ワンルームマンションの数室から一挙に広々としたフロアへと移り、当時は社員も10名程度だったため、とてつもなく広く感じたという。2011年に麹町に移るまでの23年間、ここを拠点に事業を推進していき、転出時には同ビルの4フロアを使用していた。

古代の椎茸出現。日本生物科学株式会社 新館工場をつくる(39歳)

1989(昭和64)年1月7日、昭和天皇が崩御され、元号が平成に改まる。この年に仕込んだ種菌が成長し、子実体である椎茸の傘が開いたとき、傘の下につらら状につらなる胞子を無数に抱えたものすごいエネルギーの椎茸が出現した。当時、菌類・キノコ研究の第一人者に見てもらったところ、恐竜がいた時代の古代の椎茸の原種の姿だと認定される。このときの椎茸菌を親として、その子孫が現在の製品にまで繋がっている。この古代椎茸の出現は、生命エネルギーを最重要とした、古代の森や水などに対する深い研究の結実したものだった。
また、新たな生産方式の導入を決め、それに伴い大型機械スプレードライヤーを入れるための新館が併設される。平屋建ての拡充とともに、天井高のある生産室を設置した。これによって完全一貫生産体制となり、粉体化、錠剤化も全て自社で行なうようになった。
スプレードライヤーは、菌食の元となる抽出原液を熱風で蒸発させ、微細な粉末を作ることを可能にした。高さ約8m、直径約3mに及ぶ大きな機械で、8mの高さから噴霧した菌食原液が微粉末となって落ちてくる仕組みだ。巨大な機械の導入とともに、工場見学に訪れる人も増えていった。

BIOTEC手帳を製作する(40歳)

1990年(平成2)年、会社の初めてのグッズであるBIOTEC手帳を作り、お客様、関係者の方に配るようになる。港区虎ノ門にオフィスが移り、引き続き、右肩上がりに会社は成長していった。あまかすビルは当初3階のワンフロアのみだったが、91年には会社の顔となるお客さまを迎える受付を設置した1Fが、93年には2Fフロアも接客スペースとして拡張することになった。会社としてのグッズも1990年に、オリジナル手帳として、三方金(本金)、本革(最高級羊革)のものを作り、関係者、お客様に配布するようになった。製品パッケージ、会社の手提袋そして手帳と、生き方や人生に良く働きかけるよう考えデザインを決めている。

菌食・ミネラル研究に邁進、特許5件を取得(41歳)

1991(平成3)年、創業期は聖マリアンナ医科大学学長の戸栗栄三先生の研究室を使わせてもらいながら、パストゥールの免疫学と細菌学、南方熊楠の粘菌学、フレミングの細菌学を土台とした研究を続けてきた。その後、工場ができ研究設備も完備、会社、自宅、工場を問わず研究に没頭し、長年の研究の成果として担子菌類菌糸体の培養及び、有用成分の分離抽出法をはじめ特許5件を取得した。この特許取得に至った製造法は製品作りに充分生かされており、菌食、ミネラル食品共に生命エネルギーを最大限引き出すよう、工夫がされている。技術面においては、生命エネルギーが高いがゆえに、加工が難しいという課題があったが、加工の専門業者が無理だとした技術的壁を「必ず出来る」という信念で、次々に乗り越えていった。

問答形式の勉強会が始まる(42歳)

1992(平成4)年、後の著作『生くる』『友よ』(講談社)『生命の理念』(講談社エディトリアル)の元となった原稿を執筆し始めるのと同時に、執行思想を聞きたいと、次々と増え続ける事業の関係者、日本菌学会の人々、多くの大学関係者と勉強会を始めた。最初は社内誌として内容をまとめ、二年後にこれらの質疑応答、勉強会、また執筆内容が、季刊「メガヘルス」の刊行(現在刊行および販売終了)へと繋がる。

季刊「メガヘルス」の刊行開始(44歳)

1994(平成6)年、独自の生命燃焼論と思想・哲学を広めるための社内誌、季刊「メガヘルス」の刊行が開始される。以降2003年まで10年間刊行し続ける。「メガヘルス」とは無限の生命力を信じる生き方、向上心、探求心といった能動的な「積極的健康法」を意味する独自の言葉(執行草舟の造語)である。勉強会ではあらゆる質問に対し、その場で迷いなく答え続け、参加者は、目から鱗が落ちる思いを何度もしたという。また、自らの体験と思索から掴んでいった人生論と、心の友である愛誦詩歌について執筆をし、毎号掲載した。内容が読者により深く伝わることを意図し活版印刷で作られた冊子である。(途中より印刷所の事情によりオフセット印刷となる)同年、バイオテック㈱創立十周年の記念品として内村鑑三の『代表的日本人』の私家版を活版で制作。

会社の年末食事会で、特攻隊の衣装を着る(48歳)

1998(平成10)年、創業以来、年末に一年の会社の活動を振り返る年末食事会を社長以下全社員出席で催してきた。1998年は、バイオテック創立十五周年にあたり、「十五星霜去来の辞」と題し、挨拶文を読み上げた。この年から2010年までは毎年、年末の辞を社員に対して読み上げた。「仕事を共にするとは、偕に生き迷いつつも何より偕に死ぬと謂ふ事である」(「十五星霜去来の辞」より引用)
執行家の略式家紋である「蔭桜」が刻印された盃を、バイオテック創立十五周年を記念として制作、社員に配り、ともに仕事をしてきた仲間として祝った。蔭桜とは夜に月あかりの下、桜の花を裏側から見上げて透けて見えるイメージを紋にしたもの。これ以降、さまざまな記念品が創られるようになるが「蔭桜」を印として付されたものが多い。またこの家紋がバイオテックの社章になっている。十五年の節目に当り、年末食事会に参加した家族、社員、関係者と水盃をくみ交し、仕事を共にする絆を固めた。そのための蔭桜盃であり、特攻服であった。

『見よ銀幕に』の執筆開始(49歳)

1999(平成11)年、幼い頃から母や祖母に連れられて映画館に通い、その後も大の映画好きとして何万本もの映画を観続けて来た。この数年前より映画の持つ価値、力というものに気付き、気付いたからには縁ある人々に奨めていこうと、事業の一環として「草舟推奨映画」を始める。「人生の糧」に必ず成ると信じる、心底感動した作品群を選び、一つ一つの作品に私見を書いていった。これが後に『見よ銀幕に』としてまとまっていく。

工場が群馬県知事より表彰を受ける(50歳)

2000(平成12)年、群馬県知事より日本生物科学株式会社(現・株式会社 日本菌学研究所)が食品衛生の向上を図った工場として、表彰される。当社以外の受賞した会社は大手企業が多く、当時の工場の規模で受賞することは他に例がないことであった。また、工場建設から県知事賞受賞までにかかった年月が、最も短い最速での受賞となった。

美術・出版事業創設から現在まで

自身の名前を「草舟」と号す(51歳)

2001(平成13)年、五十歳という人生の節目において、その生涯を振り返り、増々若き日の志を貫き通す生き方をしよう、という決意を込めて、自身の名前を「草舟」と号す。号の由来は吉田松陰の唱えた「草莽崛起」から取られており、明治維新の原動力となった言葉であり思想である。死ぬまでただ独りの男(草莽)として生き、人類と国家に命を捧げたいという思いを込めた命名であった。その名前の由来を「草舟由来」として認めた。

新商品ガイアレン発売開始(51歳)

霊芝菌糸体由来の「ガイアレン」が10年以上の研究・開発の末、新商品として発売開始になる。サンレムが肉体全体の賦活に有効なのに対し、ガイアレンは「神経」全体への働きかけが特徴的な商品である。現代社会に生きるストレスを緩和し、良質な睡眠を助け、直観力・感性を司る脳神経の働きを良くするもので、神経的な働きを大きく支える、まさに二十一世紀的商品だとして、その誕生を大いに喜んだ。製品については、ガイアレンに限らず、新しいロット毎に自ら試飲し納得したもののみ製品化していった。

山岡鉄舟の書を購入(51歳)

執行草舟コレクションの最初の作品となった山岡鉄舟の書を購入する。志を共にする者同士の真の友情を表わした言葉が書かれており、「友達の書」と命名する。書の内容は「石を掃いて共に山色を看て坐し、書を枕にし同じく雨聲を聴きて眠る」というものだった。まさに第一号の美術コレクションにふさわしい作品となった。

和歌がとまらない日々、5000首にいたる(52歳)

2002(平成14)年、名を「草舟」と号して以来、和歌が怒濤のように湧き出て来た。3ヶ月で1200首、数年後には5000首以上となる歌を詠む。初めは四六時中、和歌がとめどもなく思い浮かび、立っているときも寝ているときも、車を運転しているときも留まることを知らず、その場ですぐにメモを取って書き留めていった。その一部は季刊メガヘルスに掲載されているが、全貌はすべて草稿のメモで残されている。このときの経験から、歌は赤心と呼ばれる誠の心、真心だけしか歌えないということ、理屈も知性も批判も批評も歌には成らないということを身をもって知った。

執行草舟コレクションの蒐集が始まる(52歳)

前年の暮に「友達の書」と名付けた山岡鉄舟の書を購入して以来、鉄舟がその友を呼び集めているかのごとく、後に「憂国の芸術 ―草舟コレクション―」となる美術品が増えていった。初めの頃は、山岡鉄舟、白隠、東郷平八郎などを中心に、その後、他の多くの日本書画の蒐集が年々増えていった。

奈良の月山鍛錬場にて、刀をつくる(52歳)

事業の守り刀をつくろうと奈良の桜井にある「月山鍛錬場」を訪ね、鎌倉時代から800年の伝統を持つ、名門月山派の刀匠 月山貞利氏に刀を依頼する。鍛錬する守り刀の初打ちを自ら行なった。このとき始めて作ったのは大刀と小刀であり、一年近くの鍛錬期間を経てできあがった。これ以降、月山氏による刀を何振りか依頼することとなる。

月山氏との打合せのため、再び奈良を訪れる(52歳)

橿原神宮、大神神社、室生寺、飛鳥寺等を訪ね、風景や大黒天像を撮影する。またこの時、奈良の万葉記念館で安田靫彦画伯の手による「人麿」(柿本人麻呂)像を初めて見る。日本の最も美しい魂を描き出す靫彦の作品に感動し、多くを蒐集するようになるきっかけとなった。後にこの「人麿」は、執行草舟コレクションの一つとなった。

画家 戸嶋靖昌と出会い、肖像画制作を依頼する(52歳)

『月刊美術』2000年7月号に掲載された戸嶋の絵を初めて見てその芸術性に驚く。この人物に肖像画を描いてもらいたいと直観し、人を介して依頼するが、戸嶋は当初、依頼されての制作はしない、モデルは自分から選ぶと決めていたため、断るつもりでいた。しかし、実際に会った瞬間に意気投合し、また肖像画依頼の熱意が通じて、翌年からの制作を約束する。

養常」という言葉を創る(52歳)

自身の人生哲学を一言で表わし、根本思想を示す言葉として創り、「養常」という言葉を生み出した。
「養常とは聞き慣れぬ言葉と思う。それはその通りで、これは私の作った造語なのだ。読み下せばうとなる。養は、おのれの身の内に何ものかをかかえ込んで、慈しみ育んでいく行為を言う。常とは、一定で均衡がとれ、形を持ち、自己の中で何事かが当たり前となるようにしていこうとする過程を言い、その維持発展をも表わしている」
(『生くる』養常記より)

安田靫彦の日本画「阿呼詠詩」が執行草舟コレクションに加わる(53歳)

2003(平成15)年、安田靫彦の作品の内、最初のコレクションとなった「阿呼詠詩」は、菅原道真が幼き日に初めて公の場で、歌を詠んだときの姿が描かれている。ガイアレンの発売以来、神経系の体質改善の報告を多く耳にしていたこの時期に、「学問の神」すなわち「神経の神」ともいえる菅原道真の絵が来たことに、「ガイアレン」のエネルギーが示されていると感じる。

月山貞利氏に依頼していた刀が打ち上る(53歳)

月山貞利氏に以来していた大刀が打ち上がり、その大刀を持って神武天皇を祀る橿原神宮を参拝した。このとき、普通に参拝する予定だったが期せずして特別参拝ということになり、本殿の中にまで案内され、奥の間で祈祷を行なってもらった。神武天皇の建国のエネルギーが入った特別な守り刀となった。また1ヶ月後に打ち上った短刀の肌には、何度も日本の維新回天の源となった地、吉野の深山幽谷の波動を感じる。

戸嶋靖昌による肖像画制作開始(53歳)

虎ノ門の本社内に戸嶋画伯専用のアトリエを作り、肖像画制作が始まる。執行草舟の肖像画は全部で6点、「巌の草舟」、「夜の草舟」、「春の草舟」、「夢の草舟」、「黒の草舟」、「魅せられたる魂―執行草舟の像―」(絶筆)が描かれた。また戸嶋が40年近く制作していなかった彫刻をまたつくろうと執行が言い出すと、戸嶋がよしやろうということで彫刻制作も始まった。戸嶋は肖像画制作を画家とモデルの共同作業と考えており、その制作は生命と生命がぶつかり合う、激しい戦いとなった。
「戸嶋は、その熱情から迸る制作を始めた。私は生まれて初めて、描かれる対象になった。真の芸術家だけがもつ命がけの制作を目の当たりにすることになったのだ。戸嶋の制作に対する姿勢は、奔流の如き激しさを呈していた。それは、真に命がけのものであって、私の想像を遥かに絶するものであった。「身を削る」という言葉の意味が、初めて私にも得心できた」(『孤高のリアリズム』 第二章 無点に非ず―戸嶋靖昌の痕跡―より)
一日の制作が終わると、芸術、文学、音楽等、あらゆることを語り合う宴となった。

『見よ銀幕に―草舟推奨映画―』刊行(53歳)

独自の視点で書いた映画評(草舟私見)が評判となり、「草舟推奨映画」も累乗的に増えていった。最終的に私家版の著作として纏め、『見よ銀幕に―草舟推奨映画―』として販売を開始した。この時、草舟推奨映画は595作品。その後も増え続け、令和元年10月時点で765作品となり、定期的に追補として印刷をしている。また現在では執行草舟公式ウェブサイトで最新の作品も含め、全ての作品の「草舟私見」を読むことができる。 『見よ銀幕に―草舟推奨映画』の扉ページに使われた写真は、交流のある刀匠 月山貞利氏が奈良県の無形文化財に指定された祝賀会に招かれ奈良を来訪、その折に、旧志賀直哉邸を訪ねたときの写真である。その後まもなく、志賀直哉の手による茶器「たぬき」がコレクションに加わった。

直筆の「涙」の一字が染め抜かれた風呂敷をつくる(54歳)

2004(平成16)年、バイオテック創立二十周年の記念品として、執行草舟自身が「涙」という文字を書いて、風呂敷に染め抜いた。この「涙」に関して説明した文が記念品に添えられたが、「〈涙〉を知り〈涙〉を抱き締めて生きる事に依つて人間は眞の夢を育む事が出来るのです、〈涙〉だけが眞の灯を知る力を人間に与えているのだと私はつくづくと思っているのです」とある。

大阪支店開設(54歳)

創業より日本全国にお客様が広がり、関西方面では大阪・京都・兵庫を中心にお客様が増え、大阪支店を開設することになった。大阪市中央区の御堂筋沿いにあるキャプテンビルに事務所を構え、現在は四国、中国地方、九州・沖縄地方を含む西日本地域を担当している。大阪支店のトレードマークは入口に飾ってある、熊鷹のはく製で、めったに作られることのない希少なものである。この頃、生きた鷹を飼いたかったのだが、実現困難につき、熊鷹のはく製を入手するにとどまった。

熊川溪雲作、道臣命像がコレクションに加わる(54歳)

執行草舟コレクションが引き続き大幅に増え続け、当代一流の仏師、熊川溪雲の作品も蒐集されるようになった。もともと大伴氏の先祖である道臣命の像を入手したいと探していたが、最終的には熊川氏のつくる木彫で制作してもらうこととなった。道臣命は初代天皇 神武帝の右腕として活躍した武将であり、執行家の先祖にあたる。神武帝の東征につき従った道臣命の像が、大阪支店を開設し西への展開を強めようとしているこの時期に出来上ったことに、大いなる力を得る。道臣命以外に、深沙大将、水鏡天神(菅原道真)など、次々に制作を依頼。秀逸な作品がコレクションに加わった。

怪僧 南天棒のコレクションが始まる(54歳)

きっかけは剣豪 宮本武蔵の書を手に入れたことだった。武蔵の箱書を南天棒が書いており、その字に一目惚れして、その人物を調べていくと、山岡鉄舟や乃木大将もその下に参禅していたという大変な傑僧だった。南天棒の人物、書、そして画賛にも心惹かれて蒐集を続け、その数はおそらく世界一となっている。

霊芝菌糸体由来食品「ガイアレン」の錠剤が発売される(55歳)

2005(平成17)年、先行してガイアレンの粉末食品が発売となっていたが、粉末が微粒子過ぎて錠剤化が困難だった。研究を重ね、試作を繰り返してガイアレン(粒)の商品化が実現した。

6月、九州支店開設(55歳)

福岡市中央区天神に、九州支店を開設する。前年の大阪支店開設に続く出店となる。天神は、学問の神であると同時に、憂国の想いを懐きつつ、無念の死を遂げた人々の守り神である菅原道真のゆかりの地である。そのような憂国の士に少しでも報いることを誓っての出店となった。この九州支店は、8年に亘る営業活動で、お客様の数を大きく増やし、また地域のつながりによる縁を結んできたが、2012年、営業部長の上原安紀子が亡くなったことによる人事の異動により、現在は閉店している。

画家 戸嶋靖昌逝去。享年72歳(56歳)

2006(平成18)年、前年の秋、末期の直腸癌と診断され、余命半年と宣告された戸嶋靖昌は、「執行をモデルに最期まで絵を描きたい」と希望。絶筆となる「魅せられたる魂―執行草舟の像―」(50号)に取り掛かる。この作品に全力を使い果たした戸嶋は、描き終えた翌日に斃れ、その後は死を待つ日々を送った。最後まで芸術論を二人で語り、戸嶋は「魅せられたる魂―執行草舟の像―」が自分の新たな出発の作品になったと、新しい境地となって今後も制作していきたいと言っていた。同年7月、戸嶋は息を引き取る。葬儀では、戸嶋から遺言として託された通り、バッハの「マタイ受難曲」を会場で流す。

戸嶋靖昌の遺品と作品を譲り受け、その画業を顕彰することになる(57歳)

2007(平成19)年、戸嶋靖昌の800点に及ぶ作品と遺品、稲城市にある居宅兼アトリエを譲り受け保存することになる。戸嶋画伯の生きていた頃の居住空間には、すべての作品が家に隙間なく置かれ、生活環境がほとんどない状態だった。彫刻や資料、3000枚におよぶLPレコードなどで埋め尽くされた家をすべてリフォームし、最終的には戸嶋靖昌記念館 本館として保管。現在は資料の保管を主に行ない、作品展示は麹町の常設展示場で行なっている。

ビーポーレン加工食品「メガポリン」発売開始(58歳)

2008(平成20)年、スペインの歴史的に特殊な、限られた地域に古代から続く野性の花畑から蜜蜂によって集められた、世界最高品質のビーポーレン(花粉)を原料とした「メガポリン」が商品としてできあがる。ビーポーレンは、必須栄養素を全て含むパーフェクト食品であり、ヨーロッパなどでは旧くからその価値が知られている。「メガポリン」は、栄養バランスを取るためには秀逸な製品である。

戸嶋靖昌記念館を設立。同館館長に就任する(58歳)

前年より準備を進め、戸嶋の居宅兼アトリエのリフォームが成ったところで戸嶋靖昌記念館を設立。戸嶋靖昌の長男・朋嗣氏が名誉館長となり、自身は館長に就任する。戸嶋の作品800点以上と、遺品や手紙、写真、メモなどの資料もすべて譲り受け一括管理し、修復と保存を行なう。画業の顕彰、展覧会の運営などに向けて活動を開始する。

「大和し美し」展に安田靫彦の作品コレクション貸出(58歳)

MIHO MUSEUM で開催された「大和し美し」展、千葉市美術館にての同題展に、執行草舟コレクションの安田靫彦作品を出品。靫彦作品も多数となり、一大コレクションとなったところに、貸出要請が来たため応じる。MIHO MUSEUMは滋賀県の山中にあり、世界的な建築家、I.M.ペイによる自然と建物が一体化した美しい美術館である。そのオープニングに出席するために訪れた折、日本武尊を祀った建部大社と、当社の事業と関連が深い日本で唯一の菌の神様を祀る菌神社にも参拝した。

「権鎮圭」展に、権鎮圭の「自刻像」(戸嶋靖昌遺品)を貸出(59歳)

2009(平成21)年、武蔵野美術大学にて、同大学卒業の韓国の天才彫刻家「権鎮圭」展が催され、戸嶋靖昌の遺品にあった権鎮圭の自刻像を出品。戸嶋靖昌は学生時代、大学の先輩である権の下宿を度々訪ね、石膏の小品を見せてもらったりしていた。戸嶋は権鎮圭を心から尊敬しており、執行にもたびたびそのことを語っていた。権から彫刻作品を数点譲り受けており、現在は戸嶋靖昌記念館で保管している。

「安田靫彦」展にコレクション貸出(60歳)

2010(平成22)年3月、ニューオータニ美術館と川崎市市民ミュージアムで同時開催された「安田靫彦」展にコレクションを貸出した。ニューオータニ美術館のテーマは「花を愛でる心」、川崎市市民ミュージアムのテーマは「歴史画誕生の軌跡」であり、それぞれの図録に“靫彦がいる”と“みやびとあはれの”という文章を寄せている。

最初の著作、『生くる』と『友よ』を講談社より出版(60歳)

12月、最初の著作、実践哲学エッセイ『生くる』と詩歌随想集『友よ』が講談社より出版される。この二冊は、1994年から10年に亘り刊行された社内誌 季刊「メガヘルス」に掲載された文章に加筆修正を加えたものである。この最初の出版までは、公に本を出すことなど全く考えていなかったが、戸嶋靖昌記念館の館長となり、戸嶋靖昌の画業を世に顕彰していくに当り、自分自身の考えを世に問うて行く必要があると考え、出版を決意した。『生くる』『友よ』は装幀界の第一人者 菊地信義氏による装幀であり、ロングセラーとして版を重ねている。

バイオテック株式会社 本社ビル竣工(61歳)

2011(平成23)年、バイオテック株式会社 新本社ビルを千代田区麴町に竣工。本社ビル内に執行草舟コレクション及び戸嶋靖昌記念館 常設展示場を開設する。地上6階、地下1階の麴町の自社ビルは、すべてのフロアが美術事業を含むバイオテック事業のために作られた。建設段階からデザインまで、執行草舟が監修に入り、すっきりと美しい、堅牢で無駄のない建築となった。昔ながら変わらない思想と志をより一層強くもちつつ、新たなバイオテックとして新しい社屋とともに邁進する弾みとなる年であった。

月刊誌『正論』に、「根源へ ―草舟立言―」の連載が始まる(61歳)

月刊オピニオン誌『正論』に、執行草舟の連載インタビュー「根源へ ―草舟立言―」が掲載される。桑原編集長によるインタビューが毎月一回二年間に亘って行なわれた。桑原氏は執行草舟の著作を読み、感銘を受けてインタビューを希望し、このインタビュー記事は、最終的には『根源へ』(講談社)の著作の原稿の元となった。また、この連載期間中、『正論』の表紙を執行草舟コレクションの安田靫彦の作品が飾った。この表紙とそこに添えた執行ならではの短文が好評だったため、連載インタビューの終了後には自身の美術コレクションを紹介した巻頭グラビア連載「憂国の芸術」が2年間に亘り掲載された(これがのちに書籍『憂国の芸術』の基となる)。

取締役営業部長の上原安紀子が病を得て亡くなる(62歳)

2012(平成24)年、会社の創業時より、自身の右腕として事業を支えてくれてきた取締役営業部長の上原安紀子が病を得て亡くなる(享年59歳)。創業期より、1人でも多くの方にバイオテックの製品の素晴らしさ、執行思想の素晴らしさを知ってもらいたいと、情熱をもって仕事に当り、多くのお客様に慕われていた。また、出版物の窓口を担当、『正論』の連載インタビューにおいては助手をしていたが、最後の四回を残し、思い半ばで亡くなった。会社に多大なる貢献をした社員として、いまでも会社の中には遺影が飾られている。

『根源へ』刊行(63歳)

2013(平成25)年、『正論』のインタビューを元にした哲学・文学エッセイ『根源へ』が講談社より出版される。『正論』のインタビューの目的が、いま失われてしまった教養を取り戻す、ということにあり、著作中に多数の本や引用文が紹介され、「個性」「死生観」「希望」「別れ」「情熱」などの概念が、独自の生命燃焼論に基いて思索されていく。

母・千鶴子(享年88歳)が亡くなる(64歳)

2014(平成26)年、母・千鶴子が88歳で亡くなる。子供の頃から母親っ子で、母をとても慕い亡くなるまで同居をしていた。母が亡くなった日は、ワック株式会社の隔月刊誌『歴史通』に連載予定の自身の半生について語るインタビューが入っていた。インタビューが始まろうとするその数分前に、母が息を引き取ったとの連絡が入ったが、インタビュアーには知らされずにインタビューは始まった。幼き日の想い出を語ることは、母との想い出を語ることであり、一番の供養だとの思いを秘めつつ、インタビューは進められた。この連載のインタビューでは、絶えず母の逸話、エピソードが登場することになる。

バイオテック創立三十周年記念品として、「風の草舟」(戸嶋靖昌作)のミニチュア(右)を制作した(64歳)

戸嶋靖昌が晩年に製作した執行草舟の頭部「風の草舟」のミニチュアを富山県高岡市にある鋳造の老舗「能作」に依頼。一点ずつ表情や色合いのことなる、精巧なブロンズ像のミニチュアができあがる。敷板は漆塗りで艶やかにコントラストを成し、ミニチュアは飾っていると風を感じるほどの重力波のある記念品となった。

「武蔵府中 炎の油画家5人」展(府中市美術館)にコレクション貸出(65歳)

2015(平成27)年、府中市美術館「武蔵府中 炎の油画家5人」展(5月16日-7月5日)に戸嶋靖昌の作品を出品。初めて100号以上の戸嶋靖昌の大型作品が展示される。武蔵府中で活躍した正統的な洋画家のうちの一人として、公の美術館で取り上げられた初めての機会となった。

駐日スペイン大使館にて「孤高のリアリズム―戸嶋靖昌の芸術―」展開催(65歳)

駐日スペイン大使館「孤高のリアリズム―戸嶋靖昌の芸術―」展に戸嶋靖昌の作品を出品。初めて戸嶋靖昌の大規模な個展が、公的機関で行なわれた。入場者数は5,000人を超え、スペイン大使館の催しとしては史上最高の入場者数となる。さらにスペイン大使、文化担当参事官を始め駐日スペイン大使館の協力下で、多くのスペイン関係者にも戸嶋芸術を広める機会となった。NHKの日曜美術館ではこの展覧会の様子がアートシーンで取り上げられた。

『魂の燃焼へ』刊行(65歳)

書店「読書のすすめ」の店長清水克衛との対談『魂の燃焼へ』が、イースト・プレスより出版される。悪党と悪党の対談と言われるほど、話の合う独立自尊の二人の個性がぶつかり合った。対談も準備してきた質問項目はすべて無視して、その場で自由に話し合う放談のような形となった。どんなテーマも言いたい放題、魂を燃焼させるにはいかに生きるかを問うた一冊。

妻・充子の三十三回忌に鈴の記念品をつくる(65歳)

二十七歳で亡くなった最愛の妻・充子の三十三回忌を行なう。期せずして母・千鶴子の一周忌も同年に行なった。母と妻は生前とても仲が良く、三十三年ぶりに同じ墓に眠ることとなった。自伝『おゝポポイ!』の中で語られているが、死して約束を果たす『雨月物語』の「菊花の約」そのものである。

『歴史通』に自身の半生を語るインタビュー連載開始。自身の会社に娘の執行真由美が会社の後継者として入社(66歳)

2016(平成28)年、ワック株式会社の雑誌『歴史通』(隔月誌)に自身の半生を語ったインタビュー「武士道への道」が、二年に亘り連載される。この連載中に、父母ともに亡くなることとなった。インタビューの内容は幼いときの事柄から大人になるまでであり、まさに父母についての思い出も多く語っていた。また、妻・充子と娘の生まれた当時についても初めて詳しく語られることとなり、その時期に娘の真由美が後継者として入社した。

『孤高のリアリズム―戸嶋靖昌の芸術―』『憂国の芸術』『耆に学ぶ』刊行(66歳)

孤高のリアリズム―戸嶋靖昌の芸術―』は戸嶋靖昌の生涯とその芸術が一冊になっており、また、國學院大學教授 小池寿子氏による論文が寄稿されている。執行草舟コレクションの真髄とその作品を紹介した『憂国の芸術』が講談社エディトリアルより刊行。老いることを問うた一冊『耆に学ぶ』(共著:清水克衛、吉田晋彩、西田文郎、寺田一清)がエイチエスより出版される。小池寿子教授によって『孤高のリアリズム』出版記念の講演会も、千代田区六番町の、スペイン国営セルバンテス文化センターで催される。

NHK日曜美術館にて、「グラナダ・魂の画譜―戸嶋靖昌・孤高のリアリズム」が放映される(67歳)

2017(平成29)年、NHKの美術番組「日曜美術館」の本編にて、戸嶋靖昌の画業が取り上げられる。NHKがスペインでの戸嶋の制作活動も含めて取材し、その人生と画業を追った。番組の制作に際し、執行も全面的に協力し、番組の収録も戸嶋靖昌記念館内で行なわれた。放映後は未知の画家であった戸嶋靖昌の画業と人生に感動を受けた多くの方が、全国から記念館に来館され、美術愛好家の間に広がりを見せた。

ミゲール・デ・ウナムーノの『生の悲劇的感情』を復刊(67歳)

生の悲劇的感情』は自身の若い頃からの座右の書であり、自己の思想を築き上げる上で決定的な影響を受けた本だが、長らく絶版になっていた。ところが自身の著作の中で度々紹介したことにより読者からの問い合わせが増え、再販を望む声も高まったことから、出版元の法政大学出版にはたらきかけ、復刊することとなった。復刊にあたり、本書の帯に言葉を寄せた。

社名変更を行なう(67歳)

本社工場竣工に先立ち、バイオテック株式会社ならびに日本生物科学株式会社の社名を変更。販売・啓発部門を株式会社 日本生物科学(旧 バイオテック株式会社)、研究・製造部門を株式会社 日本菌学研究所(旧 日本生物科学株式会社)とする。この時より、美術・出版事業(非営利)を含めて、BIOTECを包括的総称として使用。

新・本社工場竣工(67歳)

㈱日本菌学研究所・新本社工場の竣工および移転。群馬の藤岡工場から川崎市麻生区の「かわさきマイコンシティ」(最先端技術の研究・開発に特化した企業を集めた創造発信都市)に新たな研究所・工場を建設し移転した。初めて、この場所を訪れたとき、長年、研究・実証をしてきた新たな製造方法を導入することを直感的に決めた。従来の熱風乾燥法から真空・凍結乾燥製法に切り替えるという180度の転換をはじめ、菌食原液を真空内で短時間に高濃縮する技術の導入などで製品の性能を飛躍的に向上させることが出来た。少数精鋭の研究・製造部員が最新鋭の機械を活用し、資本主義の生産工程の原型である「マニュファクチュア」(工場制手工業)を行う。新工場の竣工記念品として、工場の建物が幻想的に浮かび上がるクリスタルの置物を制作。また、竣工式では改めて自身の思想と事業に生命を捧げ尽くす想いを「創業を想う」として読み上げた。

『おゝポポイ!』『「憧れ」の思想』刊行。『生命の理念』刊行(67歳)

独自の生命燃焼論を纏めた『生命の理念Ⅰ・Ⅱ』が講談社エディトリアルより、「憧れ」をテーマに思索した哲学エッセイ『「憧れ」の思想』、『歴史通』(ワック株式会社)に連載された自身の半生を語った『おゝポポイ!―その日々へ還らむ―』を纏めたものが、PHP研究所より出版される。のちに『「憧れ」の思想』は、イエローハットの創業者で日本を美しくする会相談役の鍵山秀三郎氏の著作の中で紹介された。読書人である鍵山氏に、今まで自分が読んできた本のすべてを合わせたよりもすばらしいと絶賛され、大感激する。

セルバンテス文化センターにて「戸嶋靖昌の見たスペイン」展開催(67歳)

千代田区六番町にあるスペイン国営の文化教育施設セルバンテス文化センターにて「戸嶋靖昌の見たスペイン」展が開催される。戸嶋がスペインで描いた代表的な作品とともに、戸嶋の訪ねた場所やモデルなどの写真や貴重な資料とともに展示、過去最高の来場者数を記録する展覧会の一つとなった。スペインの国民紙「エル・パイス」にもこの展示について戸嶋靖昌の生涯とともに記事になり、掲載された。また、NHK「日曜美術館」のアートシーンで紹介される。

歌集 『悲天』の復刊に協力する(67歳)

歌人 三浦義一の和歌が大好きで、若き日より心の支えとして、読み続けてきた。ところが義一の代表作である歌集『悲天』が絶版となって久しく、入手困難な状況を見て、講談社エディトリアルと協力し、三浦義一の歌集『悲天』を決定版として復刊することに協力した。「『悲天』復刊にあたって」という文を寄せている。

スペイン思想研究の大家 佐々木孝先生と交流が始まる(67歳)

夏に福島で、佐々木孝先生に初めてお会いした。40年前から佐々木孝先生の著作を愛読し、またウナムーノ文学の翻訳に惚れ込んだ。翌年のスペインと日本の外交樹立150周年、サラマンカ大学創立800周年を記念として、佐々木先生によるウナムーノの伝記、論文をまとめた『情熱の哲学―ウナムーノと「生」の闘い―』(法政大学出版局)の出版を企画。ご協力を乞うため佐々木先生の住む、原発の被災地福島県南相馬市まで訪ねる。

神戸大学医学生・佐堀暢也との対談を、真夏の3日間で行なう(67歳)

神戸大学医学生・佐堀暢也氏と真夏の三日間で、文学、宗教、思想、哲学、医学、執行文学について論を激しくぶつけあう対談が行なわれた。このときの原稿が後の『夏日烈烈』(講談社エディトリアル)刊行の元となった。夕方から深夜にかけての熱い対話が、伝説的かつ濃厚な一冊を生み出した。

PHP研究所 経営雑誌『衆知』に、円覚寺管長 横田南嶺老師との対談が連載される(68歳)

2018(平成30)年、PHP研究所より刊行されている隔月経営雑誌『衆知』に、3、4月号から四回連続で対談が掲載される。一回目は円覚寺、二回目は㈱日本菌学研究所、三回目は龍雲院、四回目は靖国神社にて対談が行なわれた。後に『風の彼方へ―禅と武士道の生き方―』(PHP研究所)に纏められ、刊行に繋がる元の対談となった。

『ベラスケスのキリスト』『情熱の哲学』刊行。「いま、ウナムーノを問う」展、主催(68歳)

日本とスペインの外交樹立150周年記念、スペインのサラマンカ大学の創立800周年記念年という年に当たり、出版、展覧会の開催という形で日西友好の事業に参画する。愛読し続けたミゲール・デ・ウナムーノの伝記、論文である佐々木孝先生による『情熱の哲学―ウナムーノと「生」の闘い―』を監修、安倍三﨑訳による『ベラスケスのキリスト』(いずれも法政大学出版局)を監訳した。また、5、6月にはウナムーノが学長を務めたサラマンカ大学内の日西文化センターにて、戸嶋靖昌によるウナムーノに対するオマージュの展示「いま、ウナムーノを問う」展を、9、10月には駐日スペイン大使館にて、同題展示を行なった。サラマンカの人びとは皆、今でもウナムーノを敬愛しており、日本でもウナムーノが愛されていることを喜んだ。また戸嶋靖昌の絵画が初めてスペインで公式の個展として展示されたが、サラマンカを始め世界中の人が来場。日西文化センター史上最多の入場者数となった。

『夏日烈烈』『風の彼方へ―禅と武士道の生き方―』刊行(68歳)

一方は神戸大学の医学生、他方は円覚寺派管長の横田南嶺老師と、まったく異なる対談相手との本が同じ年にそれぞれ講談社エディトリアル、PHP研究所より刊行された。青春真っ盛りの青年との対話は文学に特化したものとなり、過去の執行著作を評する読書案内とも言える内容の本となった。横田老師との対談は「禅と武士道」という日本人の根幹をなす宗教思想であり行動哲学を、それぞれ宗教界、実業界で実践する二人の窮極の対話となって本に結実した。

BIOTEC事業の公式ホームページを立ち上げ、執行草舟公式ウェブサイトの充実を図る(69歳)

2019(平成31)年、㈱日本菌学研究所が川崎市のかわさきマイコンシティ(最新技術の研究開発企業を集積した創造発信都市)に移転したことをきっかけに、BIOTECの包括的ホームページを開設することとなった。美術・出版事業では、2015年に先駆けて開設しており、戸嶋靖昌の個展をスペイン大使館で開催した折、大使館の協力下において世界に活動を発信した。その後、2019年になり、母体のBIOTEC全体の活動も同時に発信していくこととなった。BIOTEC公式ホームページでは、執行真由美執筆による「メガヘルス通信」で会社や事業の動向を、また月2回のメールマガジンでも随時内容をお知らせしている。執行草舟公式WEBサイトでは、人生を写真とともに辿る「執行草舟写真館」、膨大な量の草舟による名言録「草舟語録」、好きな偉人の言葉を毎週1つずつ紹介する「草舟座右銘」、「見よ銀幕に」WEB版等、様々なコンテンツが盛んに更新されている。

『悲願へ ―松下幸之助と現代―』刊行(69歳)

松下幸之助没後30周年記念として、松下幸之助の思想と人間的経営に迫る執行草舟の講演会を基にして、PHP研究所より『悲願へ―松下幸之助と現代―』が出版された。戦後日本を築き上げ日本の将来を憂えて死んでいった一人の人間としての松下幸之助の「悲願」を、今の世に問いかける内容と成った。

㈱イマジニアの教養メディア10mtvオピニオンに出演する(69歳)

㈱イマジニアが配信する教養メディア10mtvオピニオンの番組に出演する。松下幸之助について、文明の崩壊について、経営、人間の魅力とは、美術コレクションについてなど毎回幅広い話題で、10分に凝縮された講座が好評を呼び、幾度もランキング入り、「いいね」の数も多数つけられた伝説的番組になっている。現在も配信は続けられている。(2019年9月時点)

九州大学医学部 名誉教授 井口潔先生の招きにより講演会を行なう(69歳)

九州大学医学部百年講堂にて九州大学医学部名誉教授 井口潔先生の招きにより、NPO法人ヒトの教育の会2019フォーラム〈「心的エネルギー」の生物学的人間教育論〉において、「真の人間とは何か」と題し、講演会を行なった。井口先生とは対談を行ない「現代における人間道の実践」というテーマで、両者のエネルギーがうねりをあげてぶつかり合い、会場が熱気を帯びたまま終了した。

『食えなんだら食うな』の復刊企画に協力する(69歳)

若き日に妻を亡くし事業を立ち上げたばかりの最も辛い時期に、命を支え助けてくれた、はだしの禅僧 関大徹による著作『食えなんだら食うな』(ごま書房新社)の復刊企画に携わる。その滾る想いは解題と帯に表現されている。アマゾンランキング、書店ランキングに入り、好評発売となった。

著作

『生くる』(2010年、講談社)
『友よ』(2010年、講談社)
『根源へ』(2013年、講談社)
『魂の燃焼へ』(共著:清水克衛、2015年、イースト・プレス)
『孤高のリアリズム-戸嶋靖昌の芸術―』(2016年、講談社エディトリアル)
『憂国の芸術』(2016年、講談社エディトリアル)
『耆に学ぶ』(共著:清水克衛、吉田晋彩、西田文郎、寺田一清、2016年、エイチエス)
『生命の理念Ⅰ』(2017年、講談社エディトリアル)
『生命の理念Ⅱ』(2017年、講談社エディトリアル)
『「憧れ」の思想』(2017年、PHP研究所)
『おゝポポイ!―その日々へ還らむ―』(2017年、PHP研究所)
『情熱の哲学―ウナムーノと「生」の闘い―』(監修:執行草舟、佐々木孝著、2018年、  法政大学出版局)
『ベラスケスのキリスト』(監訳:執行草舟、翻訳:安倍三﨑、2018年、法政大学出版局)
『夏日烈烈』(2018年、講談社エディトリアル)
『風の彼方へ ―禅と武士道の生き方―』(共著:横田南嶺、2018年、PHP研究所)
『悲願へ ―松下幸之助と現代―』(2019年、PHP研究所)
『現代の考察 ―ただ独りで生きる―』(2019年、PHP研究所)
『見よ銀幕に―草舟推奨映画―』(2003年、戸嶋靖昌記念館)

掲載誌

2019.7.26
秋田魁新報 総合「北秋田市出身の画家 戸嶋さんの情熱 作品から感じて」
戸嶋靖昌の画業と展覧会「内なる力―火と土と―」展(2019年6月24日~9月28日)を紹介する記事掲載。
2019.5.10
[書評]雑誌『Pharma Medica Vol.37 No.5 2019』 「評・渡邉久美(香川大学医学部 精神看護学 教授) 悠久の時を超え、我が国独自の誇り高き精神性を育むものとは 『対談 風の彼方へ 禅と武士道の生き方』」
2019.4.5~4.26
イマジニア株式会社配信「10MTV テンミニッツテレビ・オピニオン」に講師として出演。(番組名:松下幸之助と崇高)
2019.4.1
雑誌「星座 2019年 飛翼号 No.89」(かまくら春秋社)に掲載された神蔵孝之氏(松下政経塾 副理事長)による巻頭随筆「革命家・予言者」の中で紹介される。
2019.3.25
[書評]雑誌『看護展望 2019年4月号』 「評・渡邉久美(香川大学医学部 精神看護学 教授) 若き医学生と稀代の思想家が読書のもつ万能性を語り合う 『夏日烈烈―二つの魂の語らい―』」
2018.8.27
雑誌『衆知』2018年9・11月号 対談「禅と武士道 第四回――「進化思想」から「怨親平等」の精神へ」
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師との対談記事掲載。
2018.6.27
雑誌『衆知』2018年7・8月号 対談「禅と武士道 第三回――現世で報われない生き方こそ真実の人生」
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師との対談記事掲載。
2018.4.27
雑誌『衆知』2018年5・6月号 対談「禅と武士道 第二回――負のエネルギーによって生命を輝かせる」
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師との対談記事掲載。
2018.2.27
雑誌『衆知』2018年3・4月号 対談「禅と武士道 第一回――死に向かって体当たりで生きる」
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師との対談記事掲載。
2018.1.1
雑誌『れいろう』2018年1月号 対談「未完に挑む――命を燃やして生きる」
パッションジャパン株式会社COO・作家・作法家 三枝理恵子氏との対談記事掲載。
2017.12
日本大学皮膚科同窓会報2017、及び雑誌『医家芸術』<文芸特集号>平成29年12月「目を描いてはならぬ! 孤高の画家―戸嶋靖昌」 同大学前皮膚科主任教授 鈴木啓之氏による、戸嶋靖昌の画業を紹介する記事掲載。
2017.5.15
秋田魁新報 〈都内で「戸嶋靖昌の見たスペイン展」 異国で達した筆致紹介 油絵50点、遠方から愛好者も〉
セルバンテス文化センターで行われた「戸嶋靖昌の見たスペイン展」を紹介する記事掲載。
2017.2.26
秋田魁新報 にちよう遊学空間 美の軌跡「生の本質問い続ける」
戸嶋靖昌の画業を紹介する記事掲載。
2017.1.29
[書評]産経新聞 読書「評・宮崎正弘 強力な磁性を持った思想書 『「憧れ」の思想』」
2016.10.16
[書評]産経新聞 読書「評・新保祐司 美術評論を超えた散文詩 『憂国の芸術』」
2016.9.4
[書評]産経新聞 この本と出会った「評・執行草舟 絶望こそが生の原動力 『生の悲劇的感情』ミゲル・デ・ウナムーノ著」
2016.6.21
日本経済新聞 文化「戸嶋靖昌 魂の画家」
戸嶋靖昌と執行草舟の出会いと戸嶋靖昌記念館設立についての記事掲載。
2016.6.5
[書評]産経新聞 この本と出会った「評・清水克衛 人生に大切な縦糸の読書 『生くる』」
2016.5.8
秋田魁新報 首都圏発 トピックレポート「没後10年 作品、生涯に光」
戸嶋靖昌記念館 分館(麴町)の紹介記事掲載。
2016.5.1
東京鳳鳴会会報「孤高の天才画家 戸嶋靖昌」
戸嶋靖昌の母校 秋田県立大館鳳鳴高校の会報に記事掲載。
2016.4.3
[書評]産経新聞 読書「評・桑原聡 孤高のリアリズム―戸嶋靖昌の芸術―」
2016.2.25
雑誌『芸術新潮』2016年3月号 ARTCAFÉ「戸嶋靖昌の画業に肉薄 まもなく決定版作品集が刊行」
戸嶋靖昌の芸術作品とその生涯を紹介した決定版『孤高のリアリズム』の紹介記事掲載。
2015.11.8
[書評]産経新聞 読書「評・執行草舟 人はいくらでも変わり得る 『人生を変える読書 無期懲役囚の心を揺さぶった42冊』美達大和著」
2015.10.25
雑誌『芸術新潮』2015年11月号 ARTCAFÉ「たった独りで絵画と向き合った 戸嶋靖昌が遺した世界」
スペイン大使館で開催された戸嶋靖昌の個展「孤高のリアリズム-戸嶋靖昌の芸術-」展を紹介する記事掲載。
2015.10.4
[書評]産経新聞 読書「評・執行草舟 生き方が生む思想の魅力 『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか』北野武著」
2015.9.5
[書評]月刊誌『致知』9月号(致知出版社) 書評・BOOKS『魂の燃焼へ』
2015.8.6
[書評]隔月誌『歴史通』9月号(ワック株式会社) 編集部のこの一冊『魂の燃焼へ』
2015.7.9
地域情報誌 ザ・AZABU vol.32(港区麻布地区総合支所) 「麻布の軌跡 日本の美を世界の美に」
日本美術を世界に広めた執行草舟の祖父、執行弘道に関する記事掲載。
2015.7.1
[書評]月刊誌『正論』2015年8月号『魂の燃焼へ』
2015.6.18
[書評]サンケイスポーツ 情報面 Book書評 『魂の燃焼へ』
2014.8.9~現在
隔月誌『歴史通』(ワック株式会社)2014年9月号~好評連載中 執行草舟「武士道への道」
2014.3.1
雑誌『道経塾』(モラロジー研究所発行)「リーダーの条件」
2013.12.1
[書評]産経新聞 読書「評・桶谷秀昭 いかに生き、死すべきか『根源へ』執行草舟著」
2011.9.1~2013.8.1
月刊誌『正論』2011年10月号~2013年9月号 連載「草舟立言 根源へ」
2011.7.1
月刊誌『正論』8月号「彗星のように現れた思索家かく語りき 還れ、日本人の心に」
2011.3.20
[書評]月刊美術2011年3月号 今月のイチ推し本『生くる』『友よ』執行草舟著
2011.3.12
佐賀新聞 さが文化「佐賀藩士子孫の執行さん 人生の哲学書 出版」
2011.3.6
日本経済新聞 読書あとがきのあと 「心の糧の詩歌 論じる『友よ』執行草舟氏」
2011.2.1、2
夕刊フジ「話題の本『生くる』『友よ』の著者に聞く 執行草舟さん」上・下
2011.1.10
[書評]読売新聞文化面「実業家の強い詩歌論」(『友よ』書評)

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